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その音は鼓膜を裂くかと思うほど。顎は頬骨を置いて右へ押しやられて、眼球はぐらりと揺れる。頸椎が不自然にぐるりと回って、下顎が上顎を置いていく。
流れる世界の中ではっきり見えた唯一のものは、見たことのない顔で俺を張り倒す彼女の大きな掌。
走馬燈、というのは別に死ぬときに見るもんじゃないんだと、この時思ったのは、コマ送りで続いていく現実の向こうに彼女とのなれそめを思い出していたからだ。
結婚式の彼女はこの世の誰よりも美しかったな。初めて彼女を見た時は普通の女だと思っていた。まさかそれが、結婚まで至るとは思っていなかった。婚姻届けに判を押させたのは、他愛のない彼女の笑顔一つだった。不意に向けられた微笑みが、心の中の何かを打ち抜いた。
床にひれ伏すまでに浮かんでくるスライドショー。あの時の彼女。この時の彼女。怒った顔もちろんある。それすら愛しいと思っていたあの頃。泣かせてしまったこともある。もう泣かせないと誓ったはずなのに。
どうして違う女が浮かんでくる。その裸は彼女じゃないだろう。狭いワンルームのシングルベッドで、誰よりも色っぽく誘う首から下。汗ばんだ肌に張り付く髪の毛がまた妖艶で、彼女にない甘美な匂いを放っている。どうしてこんな時にこの脳みそは。
触れたフローリングは彼女の瞳のように冷たく、固かった。視線のすぐそこにある彼女のスリッパはふわふわしている。細い足首。見上げるとゴミを見るような視線が体を貫いた。
頬がじんじんして、鼻水が垂れてきた。
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