ビンタをひとつ

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今は、彼女を追いかけているんだ。なのになぜ、追われているような感じなんだ。まるで背後にあいつがいるみたいに。 一段踏み外して踊り場の壁に衝突する。持っていたボイスレコーダーが饒舌に、情事を語り始めた。誰もいない階段にアラレモナイ息遣いが反響した。急いで停止ボタンを探す。こんなもの、どうして大事に握って出てきたのか。 駐車場まで降りてきて、彼女の車を探す。エンジン音はまだ聞こえた。何処だ。彼女が初めて自分の給料で買ったという、大事に使っていた赤い軽。時々は乗せてもらって、デートにも行った。 ああ、なのになぜ、あいつの真っ赤な唇を思い出すんだ。深いキスではみ出た口紅。薬品臭くて苦かった。なんだよ、思い出したいのはあいつの下卑た笑みじゃない。彼女の笑顔なんだ。 記憶と感情と現実がこんがらがった視界に、黄色いプレートの赤い車。手を伸ばしてももう遅いのか。ウィンカーを点灯させて、大通りに溶けていった。 足の小指が痛い。足の裏がひりひりする。アスファルトに散らばる小石が、脆弱な皮膚を削っていた。 握っていたボイレコが、するりと落ちた。丈夫なそれは、役割に実直な奴だ。BGMとばかりに俺の果てる声をお届けしてくれていた。
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