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若紳士は今日も職場に向かう。ジリジリと喧しいセミの腹いせ、地上に落ちた抜け殻を踏み潰す。魂がもはや別のところに宿ったせいだろう。もしくは人為的な要因を想定して逃げてしまったせいかもしれない。簡単にバラバラになって壊れてしまった。どうってことない。生きるために抜け殻になったのだ。未発達な外殻だったのだ。
ピカピカに磨かれた真っ白なタイルがぎっしりと連なる。中世の教会のような外観に近未来的な無機質空間。純白がだだっ広さを強調する。ここらでは一番大きな役所だ。誰しもできれば来たくない。しかし今回だけはどうしても我慢ならない人物がいるようだ。中央にある円形のカウンターの、正面にあたる受付にポツリと佇む若紳士に中年の男は問いかける。
「これはどういうことかね?きみ」
金色のチケットを見せて洗濯物みたいに叩きながら喚き嘆く。
「私は公正に選ばれたはずだろう?どれだけ苦労したと思っているんだ!ここに来てから、誰よりも真摯にお仕えしたではないか!」
憤慨に動じない受付の若紳士は答える。
「お客様、心中はお察し致しますが、私にはどうすることもできません。残念ながら、この件に関しては保険の適応外となっております」
「何を言ってるんだ。それじゃあ示しがつかんだろう。このチケットを掴み取るためだけに、厳しい労働にも耐えた、仲間も助けた、恵まれない魂には肉を切って分け与えた。それでなんだ、やっと選んで下さったと思っていたら、土壇場でキャンセルって、どういうことなんだ!」
「大変苦労なさったのですね。お気持ちは深く理解できます。ですがお客様、あなた様の御両親様の判断ですので、こちらではどうすることもできません」
「そんなもの向こうの都合じゃないか!今までの時間と労力を全部まとめて返してくれ!」
「そうもいきません。先ほども申し上げた通り、この件に関しては治外法権的でありまして、私どもの判断ではどうにもこうにもいかないのです。これは向こう側の決定で、私たちは全くの無力でございます」
中年の男は激怒した。魂の消火が間に合わぬ程度に、熱く燃え上がってしまった。目にも留まらぬ速さでカウンター越しに若紳士の胸倉を掴み取り怒鳴った。
「俺はただ生まれたかっただけなんだ!中身のあるしっかりとした肉体を持って、地上に出たかったんだ!それだけを夢見て、こちらに安住することなく独りで労働して、神様に仕えて、それなのに……それなのに……」
柔らかい鎧のような、外殻だけの肉体を持つ魂は涙を流して力なく手を離した。
若紳士は表情一つ変えることなく、冷静に少し乱れた息とスーツを整え淡々と続ける。
「誠に申し訳ございません。そう言われましても私には何もできないのです。最近は特に多くなってきました。あなた様がお生まれになる予定だった日本という国だけでも、毎年約16万件のキャンセルが行われています。私も心を痛めております。残念ながらゴールドチケットは失効となりますが、またの機会を願っております」
威勢を失った脆弱な魂はやっと観念したのか、燃え上がり剥がれ落ちた肉体を拾いながらトボトボと肩を落として出口に向かって行った。
その日の勤務が終わった後の帰り道、若紳士は今朝踏んだセミの抜け殻を目にした。いつまで残っているのだと、それだけを思って平然と別の家路につく。
「ただいま」
「おかえりなさい、待ってたよ」
うら若き女が迎える。婚約中の妻ではない人物だ。キスを交わしてさっそくベッドまで行くと、若紳士は態々整えたスーツをくしゃくしゃにしながら脱ぎ、明後日の方向へ投げ飛ばした。抜け殻はリッチなスーツ。簡単に押し倒すと、本能に従い女を生まれたての姿にした。抜け殻は制服。もちろん避妊はしない。
どうも未発達なようだ。
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