第一章 道成寺

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第一章 道成寺

 遠州灘の大海原に突き出た岬は、いつもなら強い風が吹き付けるのだが、今日は風が無く穏やかだ。海も凪いでいる。  その上の久方の青空は雲一つ無く、遥か彼方で海原と接している。ともに水色だが、空の方が鮮やかで、海の方は灰色に近い。  海と空の、真一文字の境目に目を凝らす。 「あの先に女護ヶ島があるのか」  風除けのために植えた松に寄り掛かって座る全休法師は、そうつぶやいた。女護ヶ島などと、法体で口にするなど不謹慎である事ぐらい、重々承知している。  そもそも僧侶たる者、女犯は御法度である。  今度は砂浜の先の汀に目を移した。まだらに白い波が、大きな音を立てながら寄せては返している。    跡白波と女護ヶ島に渡るには舟が要る。ちょうどいい舟が無いものかと眺めていると、同じような僧形の姿が目に入った。他に人はいない。  二十間(三十六メートル)ほど先にある波打ち際に立っていて、こちらに背を向けている。そして先ほどの自分と同じように海原の彼方を眺めている。  その僧は笠を被っているし、背中しか見えないので、その人相は分からないが、細い身体付きからして若いのだろう。その笠も袈裟も色あせていてみすぼらしい。唐草文様の風呂敷包みを背負っている。  きっとあの法師も女護ヶ島を目指しているのだろうな、若いっていいな。  齢四十の全休法師は、そうは思うものの、まだまだ若い者には負けないと思っている。  やがてその若い僧は、笠を取って砂浜に投げ捨てた。旅の僧侶とは思えないほど頭や首の肌が白い。  その後ろ姿から全休法師は美男子を思い浮かべ、甘酸っぱい気持ちになった。  若い僧はそのまま海に入った。波が打ち寄せ、脚絆が濡れて、その色が濃くなる。  歩いて渡るのか。やっぱり若いな、と思ったが、そんな訳は無い。 「やや、身投げか」  全休法師は思い直してそう叫ぶと、抱えていた杖も荷物も打ち捨てて走り出した。  どんな訳があるかは知らないが、自ら命を断つなんて、そんな事をしたら二親が悲しむに決まっている。
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