ひとつまえの自分

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「その人はね、子どもの頃、毎週土曜日のお昼ごはんは家族と近所の洋食屋さんへ食べに行ってたんだって。いつも仕事で忙しい両親と三人で過ごす一週間で一番幸せな時間だった。甘くてほろ苦いデミグラスソースのハンバーグ。二匹の大きなエビフライ。一皿じゃ足りないふわとろ卵のオムライス。その人は、いつか自分もお店屋さんになりたいって思うようになった。ギンガムチェックのテーブルクロス。黒板を持ったコックさんのオブジェ。開けるとカランコロンって鳴るドアベルや、煙の出ない偽物の煙突。そういうワクワクしちゃうもので溢れるお店。そんな夢をはぐくみながら大人になった。・・・・でも、料理の専門学校に入ってすぐ、病気が見つかった。治療のためには強い薬を使わなくちゃいけなくて・・・結果病気は治ったけど薬の副作用で食べ物の味を感じることができなくなった。先生は時間の経過とともに回復する可能性は十分に考えられるって言った。家族はその日が来るまで他の道を考えてもいいんじゃないかと言った。だけど、それじゃ嫌なの。いつかじゃなくて、今やりたいことがやりたい。なりたいもののためにがんばるのは今じゃなきゃ嫌だった。それで噂話をたよりにここへ来た。どんな可能性にでもすがりたい思いで」 「神様は願いを叶えてくれた?」 質問に、長いまつげを伏せ、半分だけ・・・と答える。 「全力で走ったあとは視覚や聴覚が研ぎ澄まされて体中の神経が表面に露出したみたいに敏感になって、それに引きずられるように消えた感覚が呼び戻された。コンビニのチョコを食べながら周囲の目を憚らずに泣いた」 「どうして半分?」 「効果にはタイムリミットがあったから。数日たてば元に戻ってしまう。それでもその人は感謝してるって言ってた。だって、ここに来てる間は大切な夢を捨てずに済むから。・・・・・・わたし、一生懸命走る君の後ろ姿を見て、君もそうなんじゃないかって思ったの。追いかけてきたのはダメ出しをするためじゃなくて本当は理由を知りたかったから」
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