ひとつまえの自分

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それ以降の夜は追い越したあとに軽く手をあげたり、挨拶代わりにハザードを点滅させたり、それもしなかったり。 あの夜のように言葉を交わすことはしないまま、南はバイクを傾けてカーブを曲がれるようになった。 太陽が昇る前、まだ暗い水色の空の下を寮にむけ走っているときだった。視界の先でもうもうとたなびく黒煙に目を凝らす。まだ救急車も消防車も着いていないようだった。車から降り大声で電話をかけている男やスマホのカメラをかまえる野次馬をかわし、進んだ。そして南は横転したトラックと共に燃え盛る赤い隼を見た。 「危ないよ!」と制す声を背に傍らを走り抜ける。 気の毒だなんて思わない。だって、ずっと尽くしてきた夢に、叩き続けたなりたい自分へ繋がる扉に、拒絶される絶望をもう感じなくて済むんだから。 気づかないわけない。人は、通りすがりの他人の話をあんな風に涙を溜めながら語ったりしない。 赤い隼が消え、代わりに見慣れない黒のパニガーレが現れるようになった。ある夜、そいつが事故現場に花束を落としていく瞬間を目にする。 恐るべきスピードを保ったままべたべたに車体を倒しコーナーに突っ込んでいく。そうやって我武者羅に走っていればもう一度会えるとでも信じているように。 道の彼方へ消えていく背中を見送りながら、南は無くしたものを取り戻すことができるというこの道のしくみについて考えてみた。 生と死の狭間で人間は、自分の身に起きている耐え難い状況を切り抜けるために、これまでの人生で蓄積したありとあらゆる体験の記憶を全身の細胞を総動員させて呼び起こすという。 願いを叶えてくれるという道のからくりは、人が走馬灯を見る理由と同じだ。
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