ひとつまえの自分

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いや、と白い猫は首を振る。 『彼女の場合・・・新たな人間の器に未熟な獣の魂がなかなか馴染まなくって大変だったニャ。女の子ニャのにすごく喧嘩っ早く、考えるより先に手が出てしまう。お腹が減ると食べ物を盗んでしまう。友達もいなくいつもひとりで絵を描いていて、彼女の方も人との関わりを望んでいなかった。両親は暖かい人達だったけど、心を開くことなく家を出て、若いうちは靴磨きの老人の横に座り、お客の絵をもくもくと描いて練習した。そして夜になると上演後のオペラ座へ向かい、門から出てくる紳士淑女に「今夜の記念に一枚いかが」と声をかけ客の絵を描く。雀の涙ほどのお金を貰ってさ。雪の日、震える手で筆を握る彼女に、僕はきれいな円や三角や四角を描ける魔法をあげた。そして二十歳のとき、彼女は旧約聖書をモチーフにした巨大な礼拝堂天井画作成の依頼を受ける。すごいことだった。失敗の許されない仕事だった。だから僕は彼女への最後の贈り物として世界を図る物差しをプレゼントしたんだ。これは絵描きじゃなくても何かと便利そうだったから、まだ母親のお腹の中で豆粒ほどだった君にも付属しといたよ』 「最後、その人はどんな風に死んだの?」 『晩年の彼女は美術の教師をしたり、貴族から肖像画を頼まれて宮殿に出向いたり、ただ気の向くまま世界のあちこちを巡ったり。教会の子どもたちへ贈る絵本をつくったり。夫や子ども達、孫達に囲まれて旅立つような最後ではなかったけれど、最後の最後まで明日は何を描こうか、って・・・頭の中は大好きな絵のことでいっぱいだった。長い人生をそんなふうに生きた・・・・ねえキャット』 「・・・うん」
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