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不意に、前方から人の気配がした。足音と言うより、衣擦れの音だ。
そのまま歩きながら顔を上げると、こちらに歩いて来るのは80歳くらいに見える、背の低い老婆だった。濃い紫の着物を着て、少しも歩く速さを緩めずに、ちらりと賢治と視線を合わせた。
そして、すれ違いざまに言ったのだ。
「今日は扉が開いてるよ。気をつけな」
え?
賢治は振り返ったが、老婆はそのままスタスタと公園の方へ歩いて行ってしまった。ああ、年寄りの独り言か。
少し驚いたものの、大して気にすることなく、賢治はそのまま歩き始めた。特にあの導水路を見たいわけではなかったが、もうこの世界、どっちを向いて歩いても賢治には変わりなかった。
そのうち緩いカーブの先に見えて来たのは、記憶と少しも変わっていない石造りの短いトンネルだった。アーチと言ったほうがいいだろうか。
百メートルほど先に、ヘッドタンクのなごりの丸い石の出口があり、その途中に二カ所、石のトンネルがある。小さな頃はとても大きく、長く、感じたものだった。けれど今は……。
「……あ」
賢治は最初の短いトンネルに入ったところで足を止めた。いや、目にした奇妙なもののせいで進めなくなったのだ。
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