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そんなことを考えていたが、異常な野菜好きという言葉が引っ掛かった。ただ野菜を旨いと感じる程度なら、野菜嫌いだが健康のため食う者と同じ集合に振り分けられる。その集合内ではもはや好きという言葉に意味はない。そうすると好きという言葉自体に異常さが伴っているのではなかろうか。そんな疑問がわいてきた。
数奇という当て字はあるが、好きはそんなに新しい言葉ではなかろう。好くという動詞は大和言葉であろう。これを考えるには「す」について言葉を集めなければならない。
第一の集合は、もちろん数学の集合とは異なるが、空間を開ける意味の「す」である。腹がすく、髪をすく、少ない、農具の鍬、隙間、また隙間からなる巣、それを源とする住む、隅、砂、川の中州、といったところか。
第二の集合は、さわやかになる意味である。酢、酸っぱい、すばらしい、すっとする、涼しい、すが(氷)、水が澄む、澄まし顔、捨つなどで、第一と共通するのは邪魔なものを取り払う感覚であるか。
第三の集合は、直接という意味である。素顔、素手、素潜りなどがある。
第四の集合は、通るという意味である。吸う、すじ(とおった道)、済む、炭(燃焼済み)、煤である。
第五の集合は、こすることである。擦る、刷る、スリ
第六は、まっすぐである。杉もそうであろう。
おそらくこれを概括する、余計なことをせずに直に触れて去っていくような感覚のものが「す」であると思われる。こするが大本であるか。そして、好くは通るの集合に属するものであって、過ぐの仲間であるかと察せられた。やり過ぎが好きであるとすれば、それに数奇が当てられるのは理解できる。
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