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「おせん!」
ゲンが桜を振り仰ぎ、祥子もつられて見上げた。
桜色の着物を着た美しい女性が、巨木の幹の半ばにふわりと浮かんでこちらを見下ろしていた。雪より白い肌に夜の闇より黒い髪。生身の人間ではありえない美しさだった。しかし、そのまなざしは決して優しくはなかった。
「おせん、なんで現世にいるんだ」
『そこの娘を迎えにきたのだよ』
白くしなやかな指が向けられ、祥子はぞっとした。なにかがおかしいと感じたのだ。
『ゲン、人間であるおまえが隠世で生きてこられたのは、私に拾われた時おまえがまだ頑是無い幼子だったからじゃ。でも、その娘は違う』
「じゃあ、祥子は隠世では暮らせないのか」
『そうではない。その娘には、私と同じように肉体を捨ててもらう。そうすれば、いつまででも隠世に留まることができる』
肉体を捨てるとは、どういう意味なのだろう。嫌な予感がした。
「そんな、でもそれでは……」
隣で青ざめてこわばったゲンの表情から、やはりそれは死ぬということなのだとわかった。祥子の体に悪寒がはしった。この桜の精は、私を殺して隠世に連れ去ると言っているのだ。
「だめだ!そんなことできない!」
『おまえにはできぬであろうな』
おせんの絹のような髪が、着物の裾が風でたなびいた。すっとその白い手で空を切ると、周囲で異変が始まった。
地面からぼこぼこと怪しい音がしたかと思うと、蛇が鎌首をもたげるようにいくつもの木の根が起き上がってきた。その全てが祥子に先端を向けている。
「なにこれ……」
「下がってろ!」
明らかな敵意を感じ、立ちすくんだ祥子をゲンが背後にかばった。手には薄青い刀が握られている。
「おせん、やめろ!オレはこんなこと望んでいない!」
木の根が一斉に襲い掛かってきた。ゲンは気合とともに目にもとまらぬ太刀裁きでそのほとんどを切り伏せた。しかし、防ぎきれなかった細い一本の根が祥子の腕をかすめた。
「祥子!」
「大丈夫、シャツが破れただけ……」
ゲンは育ての親を鋭く睨みつけた。
「なんでこんなことをするんだ!」
『愛しい息子の願いを叶えるためじゃ』
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