第1章

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 その瞬間、大気に満ちていた敵意が消えた。 『その言葉、しかと聞き届けた』  ごうごうと音を立てて吹き荒れていた風が止み、静寂が訪れた。木の葉がはらはらと舞い落ち、木の根も地面のなかに戻っていった。  なにが起こったのかわからず呆然とする二人に、おせんの優しい声が降ってきた。 『ゲン、おまえは現世で人の中で生きるがいい』  おせんからも先ほど感じた禍々しさが消え、二人に向けるまなざしは慈愛にあふれたものとなったっていた。  ゲンを現世に送り出すためにおせんはこんな演出をしたのだ、と祥子は悟った。 『おまえには現世で人間としての幸せを手に入れてほしい。それが育ての親としての私の願いじゃ』  まだ呆然としているゲンに、おせんは優しく微笑んだ。美しさの中にあどけなさが垣間見え、どこかゲンに似ていた。 「でも、それではおせんは……」 『心配は無用じゃ。私は曽木の龍神殿と祝言を挙げることにした』  これにはゲンも仰天し、一気に現実に引き戻されたようだ。 「いつの間にそんなことになってたんだよ!オレ、なにも聞いてないぞ!」 『当然じゃ。なにも伝えておらなんだからな』  あわてるゲンに、おせんはころころと笑った。 『おまえも知っていよう。私もかつては人間だったのじゃ。このような姿となっても、そのうつろう心根は変わらぬものじゃ』  おせんはふわりと舞い降り、ゲンと祥子にできた切り傷に触れた。一瞬暖かな水に包まれたような感触があり、傷は跡形もなく消えた。 『すまなかったな、人間の娘よ。我が息子は不器用だが優しい子だ。よしなに頼む』  祥子は頷いた。喉がからからに渇き、言葉がでてこなかったのだ。 「おせん、もう会えないのか」  ゲンの顔は今にも泣き出しそうに歪み、声は震えていた。 「こんなのあんまりじゃないか。オレを残していかないでくれよ」  優しいその手に拾われたあの日からずっと、おせんだけを思いおせんだけのために生きてきたのに。こんな突然の別れが待っているなんて。 『私はいつでもおまえと共にあると言ったであろう。おまえをずっと見守っているよ』  おせんの赤い唇が、ゲンの額に触れた。 『ゲン、私の愛しい息子。どうか幸せになっておくれ』  そう言い残し、桜色のおせんの姿は大気に溶けるように消えた。後には花の匂いだけが残り、立ちつくす二人を包んだ。
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