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祥子は霧の深い森の中を全速力で走っていた。その背後に迫る黒い影から逃れるために。
その日は朝霧と桜の写真を撮るために早起きし、山奥にある江戸彼岸桜を訪れるところだった。いい感じの霧に包まれた登山道をうきうきと歩いていると、霧の中から突然黒い獣が現れたのだ。熊かと思ったが、鹿児島の山の中にあんな大きな熊がいるわけがない。祥子が乗ってきた軽自動車よりも大きかったのだから。それに、見間違いでなければ腕が四本もあったではないか。あれは熊ではない、別のなにかだ。それが祥子の行く手を阻み、襲いかかってきたのだ。
耳元を鋭い爪が生えた大きく黒い手が掠めた。そのはずみで帽子がどこかにとんでいった。恐ろしい気配はさっきからずっとすぐ後ろにある。祥子を捕らえようと思えばすぐできる距離にいるのに、それをせずに追ってくる。この黒い獣は逃げる獲物を狩るという遊びをしているのだ、と気がついた。ただの動物ではない。それを楽しむだけの知性があるのだ。
木の枝が頬をかすめ、鋭い痛みがはしった。息はとっくにあがっている。酸欠と恐怖で目の前が暗くなった。もう走れない……
足がもつれて倒れこんだのと、背後でこの世のものとは思えない叫び声が上がったのは同時だった。明らかに苦痛の悲鳴だった。状況が理解できず、驚いて振り返った祥子の顔に、赤黒い雫が降ってきた。切り落とされた獣の腕から噴出した血だった。
青白い光の尾を引きながら刃が一閃した。獣の体からまた血しぶきがあがった。
祥子をすんでのところで救ったのは、祥子と同年代のに見える青年だった。グレイのパーカーにジーンズ姿の、ごく普通の青年だ。青い光を薄く纏った刀を手にして、黒い獣に斬りつけていること以外は。
獣は怒りの叫びをあげ、牙と爪で青年を切り裂こうとするが、どれも青年の体には届かない。右に左にと避けながら舞うように刃をひらめかせる。逆に獣に刀傷が増えていくばかりだ。獣の胴を薙いだ青年は、まるで体重がないかのように高く跳躍し祥子をその背にかばうように立った。
「去れ。もう二度と来ないと誓うなら、命まではとらない」
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