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江戸彼岸桜と呼ばれるこの桜の巨木が可憐な花を咲かせるこの時期、訪ねてくる人間が増える。しかし、この桜が現世と隠世にまたがった存在だということを知る人間はいない。ただ一人、ゲンを覗いては。
祥子を送ったあと、ゲンはまっすぐに桜に向った。
「ただいま、おせん」
その呼びかけに応じて高い枝からふわりとゲンの前に舞い降りてきたのは、桜の花と同じ色の着物を纏った美しい女性だった。長く艶やかな黒髪が空気をはらんで広がり、その白い頬の輪郭を飾るように落ちてくる。それと同時に淡い花の匂いがゲンの鼻腔に届いた。おせんはこの桜の巨木の精なのだ。
「おかえり。ご苦労だったね」
おせんはその白い手でゲンの頭をそっと撫でて労った。大人になった今でも、ゲンはその感触が好きだった。
「今回のアレはどこかの山から来たみたいだったよ。あんまり手ごたえはなかった」
アレ、というのは先ほどの獣のことだ。このあたりには世にも稀な桜とその美しい精を手に入れようとする輩がたびたび現れる。そしてゲンはおせんを守るために刀を振るうのだ。
「人間の臭いがする」
「こちら側に迷い込んだ人間がアレに食われそうになってたから助けたんだよ。さすがに見殺しにするのも気が引けるからね。また来るとか言ってた。変な女だったよ」
「珍しいこともあるものじゃ」
「今朝は霧がでてたからね。それでもこんなことは初めてだよな」
「ゲン。私が珍しいと言ったのは、おまえが人間に興味をもったことじゃ」
意外なことを言われて言葉に詰まったゲンに、おせんは微笑んでみせた。
「その人間がまた来たら、会いにいっておあげ」
「あんな目にあったんだ。もう来ないよ」
「きっと来るさ」
おせんのなんでもお見通しといった顔に腹が立って、ゲンはそっぽを向いた。身長はとっくに追い抜いたのに、未だにおせんに敵わない。
「見回りしてくる」
言い残してゲンは再び森の中に入っていった。
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