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祥子がまた江戸彼岸桜を訪ねたのは、その翌日のことだった。霧がないことを確認しつつ、恐る恐る登山道を登ると、まるで昨日の出来事が?だったかのようにあっさりと桜の巨木にたどりついた。
今までに祥子が見たなかで、間違いなく一番大きな桜の木だ。複雑に入り組んだ形をして苔生した根元の大きさから、樹齢約六百年というのも頷ける。花はまだ満開にはなっていない。それでもその姿は一見の価値があると感じた。
バックパックからカメラを取り出して構えようとした祥子は、危うくカメラを取り落としそうになった。いつのまにか目の前にゲンが立っていたのだ。
「本当に来たんだな」
「もう!びっくりさせないでよ」
一体全体どうやって現れたのか想像もつかない。カーキのシャツにジーンズというシンプルないでたちで、ただ立っていると祥子の通う大学の学生と同じように見えるのに。
「悪かった。驚かせるつもりじゃなかったんだ。いつもこんな感じだから」
人間だったら驚いて当然だよな、と言うゲンは呆れたような嬉しそうな顔をしていて、それを見て祥子は怒る気をなくしてしまった。
「はい、これ。昨日のお礼」
祥子にやや乱暴に箱を押し付けるように渡されたゲンは、その中を覗いて破顔した。
「あ、これドーナツってやつだろ」
精悍さが消えて無邪気な少年のようで、そのギャップに祥子はどきりとした。
「ドーナツ食べたことないの?」
「現世のことはよく覗くからだいたい知ってるけど、現世の物を食べたことはないんだ」
早速一つを取り出してかぶりついた。瞬く間に食べ終わり、次のにかぶりつく。甘いものが好きかどうかわからなかったが、気に入ってくれたようだ。ドーナツは瞬く間に減っていった。
「隠世から現世のことがわかるの?」
「わかるよ。おせんが夢の中で見せてくれるんだ。オレは人間だから、人間の世界のことを知っておかないといけないって」
「おせんって?」
「オレの育ての親。この桜の木の精だよ。昔は人間だったらしいけどね」
祥子は再び巨木を見上げた。この木には精が宿っていると言われれば納得できる佇まいだ。他の木とは違う雰囲気がある。
「オレは小さいころに口減らしで捨てられて、おせんに拾われたんだ」
「口減らしって、そんなことが……」
「オレ、現世の時の流れでいくと、二百年くらい生きてるんだよ。これでも祥子よりずっと年上だよ」
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