第1章

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 祥子がまた江戸彼岸桜を訪ねたのは、その翌日のことだった。霧がないことを確認しつつ、恐る恐る登山道を登ると、まるで昨日の出来事が?だったかのようにあっさりと桜の巨木にたどりついた。  今までに祥子が見たなかで、間違いなく一番大きな桜の木だ。複雑に入り組んだ形をして苔生した根元の大きさから、樹齢約六百年というのも頷ける。花はまだ満開にはなっていない。それでもその姿は一見の価値があると感じた。  バックパックからカメラを取り出して構えようとした祥子は、危うくカメラを取り落としそうになった。いつのまにか目の前にゲンが立っていたのだ。 「本当に来たんだな」 「もう!びっくりさせないでよ」  一体全体どうやって現れたのか想像もつかない。カーキのシャツにジーンズというシンプルないでたちで、ただ立っていると祥子の通う大学の学生と同じように見えるのに。 「悪かった。驚かせるつもりじゃなかったんだ。いつもこんな感じだから」  人間だったら驚いて当然だよな、と言うゲンは呆れたような嬉しそうな顔をしていて、それを見て祥子は怒る気をなくしてしまった。 「はい、これ。昨日のお礼」  祥子にやや乱暴に箱を押し付けるように渡されたゲンは、その中を覗いて破顔した。 「あ、これドーナツってやつだろ」  精悍さが消えて無邪気な少年のようで、そのギャップに祥子はどきりとした。 「ドーナツ食べたことないの?」 「現世のことはよく覗くからだいたい知ってるけど、現世の物を食べたことはないんだ」  早速一つを取り出してかぶりついた。瞬く間に食べ終わり、次のにかぶりつく。甘いものが好きかどうかわからなかったが、気に入ってくれたようだ。ドーナツは瞬く間に減っていった。 「隠世から現世のことがわかるの?」 「わかるよ。おせんが夢の中で見せてくれるんだ。オレは人間だから、人間の世界のことを知っておかないといけないって」 「おせんって?」 「オレの育ての親。この桜の木の精だよ。昔は人間だったらしいけどね」  祥子は再び巨木を見上げた。この木には精が宿っていると言われれば納得できる佇まいだ。他の木とは違う雰囲気がある。 「オレは小さいころに口減らしで捨てられて、おせんに拾われたんだ」 「口減らしって、そんなことが……」 「オレ、現世の時の流れでいくと、二百年くらい生きてるんだよ。これでも祥子よりずっと年上だよ」
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