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1 局 初めの一手
「破談にして下さい」
「……理由を伺って良いですか?」
ショパンが流れる昼下がりの素敵なレストランの窓辺の席の相田千明は、向かいの席に座っている男に尋ねた。
「自分は、棋士をしていまして、将棋にこの生涯を100パーセント捧げたいのです……」
「顔色悪いですよ……お茶、いかがですか?」
「ありがとうございます」
仲介人が去った席の3秒後に破断宣告をされた千明は、緊張している彼にお茶を進めた。
「僕は将棋の世界において、替えの利かない唯一無二の存在になりたいんです……だから家庭を持つとか、子供の世話とか。奥さんの家族と付き合うのは自分には無理だと思うんです……」
「そうでしょうね。将棋に100パーセント捧げるんだから……」
美しいピアノの調べが流れる中、コクンとうなづいた彼はお茶を一口飲んでから続けた。
「でも……男性の私から断って貴女に恥をかかせるわけにはいかないと思いまして。どうか、そちらから破談にして欲しいんです」
「……庭に出ましょうか」
「はい」
こうして彼女は年下の見合い相手とホテルの中庭をゆっくり歩き出した。
「雪村大輔さん」
「はい」
「話は理解しました」
肩を並べて歩いている千明の言葉に大輔はホッとした顔を見せた。
「もしかしてあなた、仲介人の京子さんに、無理矢理連れて来られたの?」
「はい。食事をするたけだと言われて」
「ごめんなさいね。忙しいのに……」
ふうとため息をつきながら頭をかく大輔に、千明もため息をついた。
「でもね、今回のお見合いを、うちの祖母がものすごく期待して、私からすぐに断るわけにはいかないのよね……」
「そうですか、参ったな……」
大輔はそういって庭の小道をゆっくりと歩いていた。
「そこで私からの提案なんですけど……まずは2、3回デートをして、それでやっぱりだめでした!って感じに持って行こうと思うんですけど、どうかしら」
すると大輔は植木の枝を避けながら彼女に応えた。
「破局になるなら。それでいいです」
「わかったわ」
そうして二人は中庭にある池の周りをゆっくり歩いていた。
「ねえ。ここ滑るわよ。気を付けてね」
「はい。でも……僕はデートとか、そういう事をした事がありませんが、何をすればいいのですか」
苔が生えた石畳を慎重に歩く大輔が危なっかしいので、千明はおっと!と彼の腕を掴んだ。
「大丈夫?……そうね。食事に行くだけよ。それにこれは私側の都合で破談を延ばすわけだから……私がプランを考えるわ。大輔さんは、来てくれればそれで十分よ」
「助かります。あの着ていく服とか。考えるの……嫌なんですけど」
「大丈夫よ。そんなおしゃれなところは行かないわ。堅苦しいのは止しましょう?……私も普段着に毛の生えた格好で行くから、大輔さんはTシャツにジーンズでいいわよ」
「何から何まで、助かります」
「それに私、車で迎えに行くわ。大輔さんは家で待っていていいから」
「あの、相田さん、日時は」
「SNSします。それに名前は千明さん、でいいわ。その方はお互いの家の人が安心するもの」
「なるほど」
「よろしくね。大輔さん」
「こちらこそ。話の早い人で良かったです」
ようやく表情が和らいだ大輔に千明も思わず微笑んだ。
「私もよ。結婚する気はないって、早めに返事もらって良かったわ。時間の無駄にならずに済むもの。あ。隠れて」
「なんですか?」
木々の向うにも小道があるようで、そこにもお見合いカップルらしき男女がいた。
「あ、あの……ご趣味は?」
「自分ですか?そうですね、食べ歩きですね」
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