プロローグ:マザー・ツリー

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プロローグ:マザー・ツリー

 アルミ箔が蒸着された発泡ウレタンマットにゴロンと横になると、鬱蒼と茂った木々が創り出す密度の濃い闇のフレームに縁取られた天の川の断片が、祐介の上に降り注がんばかりに瞬いた。焚火から立ち上る火の粉がクルクルと不規則な軌跡を描きながら、その星に向かって旅立っていったが、それらは星に届くどころか森の上まで到達することも無く、あっけなくその生涯を終えた。彼らは、星になるという志の半ばにて静寂が支配する暗闇に吸収されるのだった。 静寂? いや、そこには数多の音が満ちていた。焚火のはぜる音。川が奏でる水音。風が木々の梢を揺らし、幾億もの葉が擦れあう音。草むらに潜む虫の声。遠くで声を上げる獣の叫び。何処かの枝で羽根を休める鳥の囁き。それらの音が充満する空間は決して静かとは言えなかったが、人工的な音を排除した自然のオーケストラが奏でる音楽は、やはり「静寂」という表現がピッタリだと思った。  寝転がったまま祐介が「うん」と伸びをすると、天の川が切り取られたキャンバスを、更に二つに切り分ける様に黒い影が宙を走った。ムササビだ。こんな夜はテントで眠るのは勿体ない。祐介は、焚火の脇に敷いたマットで眠ることにした。明日の最終アタックの工程を頭の中で反芻しながら目を閉じると、今日一日の遡行の疲れがドンヨリと身体を包み込み、抗い難い睡魔となって祐介にのしかかった。ほどなく眠りに落ちた彼の寝息は、森の自然のオーケストラに、また一つ新たな音階を重ね、静寂の演奏会に色を添えた。先ほどのムササビが、今度は反対方向に向かってコンサート会場を滑空した。  翌朝、目を覚ました祐介は、燻って青白い煙を立ち昇らせているだけ火床に新たな枝をくべ、小さな火を熾した。夜の盛大な焚火と異なり朝のそれはまた違った趣が有る。昨夜、天の川の断片を見せてくれていた木々のフレームから覗く映像は、今は澄み切った青空の断片へと変わっていた。所々に散在する雲の白さが、微妙なグラデーションを持った青にアクセントを加えている。その白いアクセントは、夏の風に吹かれて少しずつ位置を変えていった。  その火を使ってコーヒーを淹れると、ゆっくりと時間をかけて朝食を採った。朝食と言っても、手の込んだ料理などしない。麓で買い求めた冷凍肉まんが、昨日一日かけてザックの中で解凍されているので、それを焚火で焙って温める程度だ。それを食べながら、ポン酢を持って来るのを忘れたことを後悔する祐介であった。  食後のコーヒーを飲みながら見回すと、生い茂る木々の間隙をぬって降り注ぐ光の滝が、薄暗いコンサート会場を演出するスポットライトの様に地上の下草や苔むした岩を所々明るく浮かび上がらせていた。そこで演奏しているのは、昨夜の重厚で不気味な、それでいて心を落ち着かせる交響楽団ではない。それは、明るく陽気なバンド演奏といったところだ。祐介は立ち上がり、尻に付いた泥や砂を叩き落としながら、今日の最終アタックに向けた準備を開始した。  ここは岩手県の西部にある、とある山中だ。赤や黄色、青色の石を踏みながら一日かけて本流を遡上した、人里から遠く離れた地点である。川が蛇行する部分の内側に形成された、水面よりも3メートルほど高い位置に有る平らな一角が、昨夜のテン場であった。祐介が初めてここを訪れたのは、中学2年の頃、山釣り師であった父に連れられて来た時のことである。それ以来、祐介はこの川を上る度に、この一角をテン場として利用してきた。一人で来るようになってからも、もう何度もここで夜を明かし、「勝手知ったる我が家」と言ってよかった。祐介は父とは異なり、釣りよりも沢登りそのものに魅せられたと言っていい。鬱蒼と茂るブナ林を深く刻むように流れる川を、テントを背負って遡行することが、祐介にとってかけがえの無い息抜きとなっていた。以前は、ザイルやハーネスを使って懸垂下降などを行う冒険や探検の要素に心惹かれたものだが、今は清らかな川に足を浸し、日本に残された美しい自然を満喫しながらユックリと登る山遊びが好きだった。この本流筋を更に一日かけて昇り詰めると、この川の源頭に到達し、そこを越えたところは秋田県である。この分水嶺を境に、こちら側に降った雨は太平洋へと流れ、あちら側に降った雨は日本海へと注ぐ。ここに来る度に祐介は、そんな壮大な自然の摂理を肌で感じて、一人感慨にふけるのであった。  テン場を撤収すると、本流筋に降りて遡行を開始した。右岸と左岸を行ったり来たりしながら、遡行し易いルートを選択する。そして小一時間ほど昇ったところで、見覚えのある特徴的な岩を認めた。それは重さ数トンもありそうな石灰岩で、丸くなって寝ている猫の様に見える。それが目印だ。祐介はその岩に、勝手に我が家の愛猫と同じ名前を付けていた。その「きなこ」の手前で本流を離れ、右岸から出会う小さな枝沢に取り付いた。父と来る時は釣りが目的なので、ここから先もそのまま本流を遡行するのだが、祐介一人の時は終着点が違うのだ。  それは本流とは異なり、階段状の急峻な斜面を滑り落ちる水量の少ない流れであった。祐介は自分の背丈ほども有る段差を、いくつも乗り越えた。それらを乗り越える度に、小さな淀みにとり残された岩魚たちが、突然姿を現した得体の知れない生物に驚いて逃げ惑い、右へ左へと走る姿を見せた。そんな愛嬌の有る岩魚が、祐介は大好きだった。  その斜面との小一時間ほどの格闘の末、遂に祐介は尾根近くまで登り詰めた。上がった息を整える為の休憩がてら、後ろを振り返って腰を下ろすと、今、自分が登って来た沢が眼下に見えた。その遥か先には、昨夜のテン場沿いを流れる本流が森の緑と空の青を反射し、所々岩にぶつかっては白く弾けている様子が伺えた。昨日は遥か高く、谷を圧し潰すかの様にそびえていた山々も、今見回せば、手を伸ばせばその頂きに届きそうな程に低くなり、その代わりに空が近く、大きくなっていた。今、祐介の背後に鎮座する大岩が最後の難所であった。  祐介にとってその大岩は、言ってみれば顔見知りの様なものだ。ここに来るたび顔を合わせる旧知の仲であった。この枝沢のどん詰まりに立ちはだかるコイツは、クライミング装備が必要なほど大きくはないが、ボルダリングの基本テクニックくらいは持ち合わせていないと攻略できない意地の悪い奴だ。だがコイツとの付き合いが長い祐介は、その「クセ」を熟知している。どこにどんな手掛かり、足掛かりが有って、それらをどういった順番でホールドしてゆけば攻略できるかも判っている。今となっては、それは尾根筋に出る為の儀式の様な意味合いを持っていた。ここに至る前に、比較的緩やかな斜面を選んで、予め尾根筋に出てしまうという選択肢も有ったが、それではつまらない。この大岩を攻略してこそ、この行動に意義が生まれる様な気がしていた。だからこそそれは儀式と言えた。  まず、顔の高さに有る割れ目に右手を添え、左手は大きく伸ばした所の出っ張りを掴む。そして身体を左に倒しながらグィと持ち上げ、今まで右手でホールドしていた割れ目に右足を掛けると同時に、右腕を伸ばし1メートル程上の段差を掴むという、少々トリッキーなアクションからその儀式は始まる。これにより三点支持が完成し、身体は安定するが、次の動きは中々厳しい。祐介が初めてこの岩に取り付いた時、次の動きを見つけ出すために、2時間を費やしたほどだ。今は大した仕事もしていない左足が次の主役だ。その左足を岩に沿って少しずつ左に移動させる。つま先に全神経を集中させて。更に左へ・・・。もう少し左へ・・・。  「有った」  そこには、ほんの僅かだが、つま先を引っ掛けることが可能な、出っ張りと言うにはあまりにも微かな「スジ」が有る。それで支え得る体重は決して多くはないが、次に右足を支点に身体を伸ばす際、その左足のサポートが有るか無いかが、この岩の攻略の成否を握っている。その「スジ」を見付けるまでは、何度トライしても次の段階に進むことが出来なかったのだ。祐介は、その頼もしい「スジ」に左のつま先を掛けると、少し時間をおいた。呼吸を整える為だ。そして右手、右足のホールドを確認し、次いで左足も確認した。準備は整った。「ふんっ」という声とも息とも言えない音を発し、祐介の身体は更に左上方に向かって伸びた。そして、その大岩を山腹に保持している土手から延びるトドマツの幹を、左手がガッシリと捕らえた。ここまで来れば、後は腕力で身体を持ち上げるだけだ。少々勢いをつけて這い上がり、祐介の身体が大岩の上に躍り出た。それと同時に視界を遮る一切のものが無くなり、一気に空が開けた。  そこは、これまでの苦労からは想像も付かない緩やかな斜面で、野球が出来そうな程のなだらかなスペースが広がっていた。山に登らない人には馴染みが無いが、急峻な山腹を登り詰めた源頭付近には、この様な長閑な一角が存在していることはよくあるのだ。ここも、そういったエリアの一つであった。黄色や薄紫の小さな草花が敷き詰められ、何か浮世離れした雰囲気を醸し出すお花畑である。祐介の居る位置の反対側、つまりお花畑の向こうには、隣の沢筋が本流に向かって流れ落ちている。そして更にその奥には、この連山の主峰がその雄大な姿を現していた。その稜線を境に、下側の森は人間の、上側の空は神の領域。この景色を見るたび祐介は、そんな思いを抱くのであった。しかし、このお花畑そのものが祐介の目的地ではなかった。主峰の山頂方向から少し右、お花畑の上縁付近にそれは有った。  高木の無い緩やかな斜面に、一本だけポツンとそびえる大樹。その胴回りは、大人の男性が二人がかりでやっと抱きかかえられるほど太く、大きく広げた枝は毎年の厳しい冬に耐え、今はその命の脈動を発散するかのように、青い空へと腕を掲げていた。かつて、そこで翼を休めた鳥は何羽いたであろうか? 幹や葉に巣くう虫は何匹いるであろうか? 今この瞬間にも、数え切れない程の微生物やバクテリアを育んでいるそれは、まさに小宇宙と言えた。彼はこの木に逢いに来たのだ。  そのお花畑を見下ろす様に佇む一本のブナの木。それこそが、祐介のマザー・ツリーであった。  マザー・ツリーの足元に立った祐介は、その手を木肌に添え目を瞑った。心肺機能を持たない樹木に鼓動の様な脈動が有るはずもないが、確かに祐介はその木の営みが感じられる様な気がした。それは樹齢数百年とも思えるマザー・ツリーが、連綿と受け継いできた生命の鼓動に思えた。  「久し振り」  祐介は声を掛けてみたが、何も返っては来なかった。木は黙って祐介を見下ろすだけだった。それでも通じ合っている様な気がした。何も返って来なくても、木は祐介の声を聞いてくれている。そんな安心感が祐介を満たしていた。目を開けてみると、白や緑や灰色のまだら模様の木肌に蟻の行列が続き、せっせと何かを上へ下へと運んでいる。相変わらず祐介のマザー・ツリーは懐深く、全てを受け止める寛大さを持っているようだ。  祐介はその大木が作り出す広大な木陰にザックを降ろすと、その中から丸めて仕舞い込まれたシュラフを取り出した。次いで辺りの小石をどかして簡単な平地を造り込むと、それを枕にして寝転がる。そのまま上を見上げれば、分厚く重なる幾億の葉っぱの隙間をぬって、時折、陽の光が祐介の顔に陰影を作り出した。祐介は再び瞳を閉じた。サラサラと風に揺られる梢の音が耳に心地よく、顔を撫ぜる乾いた風が眠気を誘う。鳥の声も、虫の鳴き声も、何物も祐介の眠りを阻害する因子とはならなかった。  マザー・ツリーに抱かれて、祐介は赤子の様に眠りこけるのであった。
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