雨は湿気と憂鬱を運ぶ

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広瀬ゆか 病室のドアに姉の名前が書かれていた。 10年前の絵具事件を思い出すのは、今日が同じ6月だからだろうか。 雨が降る心地の悪い外とは変わって涼しげな病院の廊下も、また違った意味で居心地が悪かった。 空気が重い。 入院患者のどことなく弱弱しい笑顔も、看護婦のきちっと正装した姿も、ぼんやりとした嘘っぽさを感じた。 それが何なのか分からない。 単に病院に縁のない私が、病院という隔離された場所の雰囲気になじめていないだけかもしれない。 もしくは、姉に会いたくない気持ちがそうさせているのかもしれない。 とにかく、憂鬱なのだ。 ドアの前でノックをするかどうか迷う。 人生でドアに緊張するのは、おそらく病室と就職の二つだけかもしれない。 「高校生の私にはまだ早いけど、そのうちの一つを今日体験するのか」 独り言で憂鬱な気分を少しだけ落ち着かせ、無言のままスライド式のドアを開けた。 広瀬ゆり 今日私と面会の予定をしている妹の名前だ。 彼女はとにかくうるさかった。 アイドルグループがテレビに出るとキャーキャー言うから興味のない私もメンバーの名前を憶えてしまうほどだった。 反抗期には口を開くたびにばかを連発した、というより連呼した。 うるさいばかとか、なんじゃいばかとか、語尾にばかをやたらとつけた。 そのうち本当に妹はばかになったのではないかと疑ったが、私に似て勉強ができる子だったので語彙力は落としてもテストの点数は落とさなかったようだ。 要領がよいのだろう。 外でたまったストレスを家で発散することでうまく生きているのだ。 そんな妹に憧れていた。 妹みたいになっていたならば、入院することなどなかったかもしれない。 姉という役割は見えない空気に縛られている。 誰に頼まれたでもなく、おとなしくて礼儀正しく、勉強ができる模範であろうと努めてしまう。 それは性格がそうさせたのか、環境がそうさせたのか分からないが、きっかけは一つだけ思い当たる。 一度、妹が絵を描いているときに邪魔をしてしまった。 大泣きしてしまった妹の声を聞いて、私は、自分に対する激しい憎悪に駆られ、その悲しみと後悔の声色を知った。 それは、心臓を袋詰めにしたような、苦しくて呼吸の取り方を忘れてしまうものだった。 その日以来、私は自分の言動に注意を払った。 相手を傷つけないように。
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