番外編① #キスの日

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番外編① #キスの日

「外は、そろそろ夜かしら」  レシカが言った。さあどうでしょう、とジラは返す。夜だろうが昼だろうが、どうだって良い。――良い、とは思うけれど、しかしこれが夢でなくて現実なのであれば、体力を損なわないためにも休んだ方が良いだろうと判断する。したは良いが――どうしたものか。  コンクリートを流しただけと思しき床は、「お嬢さま」の寝床とするにはあまりにお粗末だ。侍女のジラの寝室に備わっているベッドだって、これほどにはひどくない。しかしここには、寝具などないのだった。冬であれば着ものを下敷きにすることも考えたが、初夏である今、ふたりが身に付けているのは薄手のデイドレス一枚きりだった。  灰色の立方形を思わせる部屋に、しばらく閉じ込められている。時計は持っておらず、窓がないので、実際にどれだけ時間が経過したのかはわからない。  窓はおろか出口もなく、本当のところは通気口すら見当たらないが、とりあえず呼吸に異常はなかった。異常はない――とは思っているけれど、しかし日常吸って吐いているものとは思えない粘度の気体が喉奥でわだかまり、息苦しさを催し続けている。毛穴が詰まったような心地がずっとしており、つめたい汗が背骨の上を幾度も辿った。非日常に落とされた不安と得体のしれない焦燥が、ジラの心臓をひどく叩いている。飽くほどに間断なく不安に襲われ、しかし打てる手段はなく、無力感に苛まれている彼女には、実際以上に重く時の流れを受け止めている予感があった。  固い地面に直寝させるよりは、自分の腕なりを、寝具代わりに呈した方がましなのだろうか。ふと思い付きはしたものの、それが有意義な提案になるとは思えなかった。あるじである歌姫と、接触を――普段から、まるで、しないというわけではない。レシカの髪を結いあげ、化粧を施し、ドレスを着せ付けるのはジラの役目だったし、浴室で爪を染めたり、うぶ毛を剃る時には、素膚すら目の当たりにする。今更だ、と言えば、そうなのだろう。――そうなのだろう? まるで正当化の汚い言い訳だ、と、ジラは自嘲の笑みを浮かべそうになる。そうして、己は、どこまでのものを腐った己のために盗み取ろうとするのであろう? 同性相手だから、レシカはジラのことをまるで警戒しない。同性の使用人相手だから、そこに罪深きものが眠っていようとは想像もせず、無邪気な主君は笑顔でどこまでも距離を詰めようとするのだ。レシカに悪い虫をつけまいとする周囲も、ジラのことまでは咎めようとしない、全員が騙されているのだ。いかにもわきまえを知った顔で、罪びとがここに佇んでいることを、誰も知らない。知らないのだから――罪を犯すわけにはいかないだろう。役得と開き直りを晒せば、死ねと強く石を投げつけるのもまた、歌姫の信徒たる自分なのだ。
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