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僕は後写鏡越しに運転手と視線を交わした。
父親の代からクラリク家に勤めている、控えめな男だが、武骨な顔の短い睫毛に数片の憐憫もどきを乗せているのが意外で、おや、と思う。地図に描かれないお伽の国、アンジェリカからやって来た歌姫は、この面白味に乏しい無愛想すら、なんなく虜にするのか。
彼女の何が他人をそうさせるのだろう。思っているうちに車は発進する。
選んだ言葉はロータリーに置き去りにされたまま。
どうしよう、と思う間にも時間は経過する。
彼女と一緒に居られる、短過ぎる、時間。
「……大丈夫だよ」
何の根拠もない言葉に、彼女は微笑んだ。
「ええ」
陽溜まりの上澄みだけを掬い上げたような声。その明るさに、僕が救われる。雨に打たれる花の茎に支柱を添わせたい願望、有り体な焦燥、今、折れてしまいそうなのは自分だったのだと。
「アル。手を貸して?」
差し出した左手に、そうっと触れてくる指、寄り添う体温にそのことを気付かされた僕は。
「レ、……シィ」
湿ったものを声から抜こうとして、必要声量も満たせず、こんな体たらくはまったく、僕らしくない、と思いながら。
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