第6章:オオサワ

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2  海は穏やかだった。MSSボーズマンが地球に到着した時の、あの嵐を予期していたタカヒサは、なんだか拍子抜けしていた。  「意外に快適じゃないですか。もっと海は荒れるものだと思っていましたよ」  それを聞いたオオサワは応えた。  「嵐を避けるルートを取っているのさ。本当の時化に遭遇したら、地球に来た事を後悔するぞ、きっと」  意地悪な笑みを浮かべるオオサワの声は、大洋を吹く何処までも澄み渡った風に吸い込まれていった。緩やかな丸みを帯びた水平線の向こうまで、その声は運ばれて行くのだろうかとタカヒサはボンヤリと想像していた。  その夢想を断ち切るようにオオサワが言った。  「今晩だ」  「何が今晩なんです?」  「これ以上、迂回出来ない。今晩、俺達は嵐に突入する」  そう言って気象レーダーのディスプレイに向かって顎をしゃくるオオサワに対し、何と返して良いのか判らず、ただ顔を見返していると、横からアオタが割って入って来た。  「今のうち寝ておけって事だよ」  タカヒサはビックリして口をポカンと開けてしまった。嵐になる事にではなく、アオタが文章を喋った事にである。おそらく、気心の知れたオオサワの船に乗っている事で、アオタの心の窓がほんの少し開いたのであろう。ひょっとして、何処か具合でも悪いのかもと要らぬ心配までしてしまったタカヒサであったが、ここは二人の忠告を素直に聞き入れる事にした。何しろ地球の事など、何一つ知らないに等しいのだから。タカヒサは二人に挨拶すると、船底に向かって伸びる窮屈な階段を降り、人一人がやっと眠れるくらいの更に窮屈なベッドに潜り込んだ。そして船のエンジンが奏でる単調なビートに身を委ねた。波に揺られる船体を体全体で感じていると、いつの間にか深い眠りの淵に沈んでいた。  誰かの叫ぶ声が聞こえた。タカヒサの脳はそれでもなお現実社会への復帰を拒み、再び眠りに就こうと試みた。だが、その試みを打ち砕くに十分な叫び声が再びタカヒサの鼓膜を揺らし、その振動に励起された聴覚神経が隣接する三半規管に、タカヒサの置かれている三次元的な異常を彼の脳に伝えるようにと促した。ゆっくりと活動を再開し始めたタカヒサの脳が最初に認知したのは、自分の体がとてつもなく揺れている事であった。タカヒサは飛び起きた。その拍子に、二段ベッド状になっている仮眠室の天井にしこたま頭をぶつけ、揺れる船室で一人のたうち回る羽目になってしまった。タカヒサが「うぅ」と唸っていると、再度、誰かの声が響いた。オオサワの声だ。そしてやっと、状況を把握する事が出来た。嵐だ。  船が揺れる度に壁にぶつかりながら階段を上り、やっとの思いで操縦室に顔を出すと、そこには舵を握りながら大声でわめくオオサワの姿が有った。だが、アオタの姿は見えなかった。 タカヒサを見つけたオオサワが言った。目が笑っているので、緊急事態ではない様だ。  「さすがに寝てられないか?」  当たり前である。遊園地の絶叫マシーンの様に揺れる船で眠り続けられるほど、自分の肝は据わってはいない。  「アオタさんは?」  オオサワは舵を握ったまま、顎で船尾の方を指した。  暴風雨が殴りつける船尾には、オレンジ色の防水服と思しきブカブカのスーツを着たアオタが居た。どうやらこの嵐で、備品を固定するロープか何かが緩んでしまった様で、オオサワが大声で指示を出しているのだった。暴力的に吹きつける風雨と、嘘みたいに上下する船体に翻弄されながら、アオタは必死に作業している。それを見たタカヒサは、自分だけノンビリしている事は出来なかった。  「俺もアオタさんを手伝いますよ」  それを聞いたオオサワは一瞬、疑うような視線を向けたが、やはりアオタ一人では厳しいと判断したようだった。  「じゃぁ、そこに有るレインウェアを着て。振り落とされるなよ! この嵐じゃ、海に落ちても助けてやれん!」  「判りました!」  ゴワゴワのレインウェアを着込んだタカヒサが操舵室のドアを開けると、雨だか海水だか判らない水が一気になだれ込んで来た。風に舞う木の葉のように、右へ左へ向きを変えようとするドアをやっとの思いで閉めると、タカヒサはアオタの居る方へと移動を開始した。甲板はさながらシャワー室の様であったが、雨そのものは問題ではない。吹きつける風と激しく上下する船が、チョッとでも気を抜いた人間を海へ振り落とそうと襲いかかって来るのであった。タカヒサは握れるものは何でも握り、体が吹き飛ばされないようにゆっくりとアオタに近付いた。  すると突然、海が大きく盛り上がり、タカヒサの鼻先に島が浮上した。あまりの出来ごとに、タカヒサが腰を抜かしそうになっていると、その島は再び海中へと没していった。いやいや、そんなハズは無い。荒れ狂う波がそんな風に見えただけに違いない。タカヒサは自分の冷静さを誇りに感じた。こんな極限状態でも、パニックになどなるものか。そんな風に思っていると、またしても島が現れた。タカヒサは今度こそ腰を抜かし、その場にペタンと座り込んでしまった。デカイ!この船よりも明らかにデカイ島だ!そしてタカヒサは思った。『自分は冷静なんかじゃない。パニックになって幻想を見ている』目を見開いたタカヒサが恐る恐る振り返ると、アオタが何か叫んでいた。  「・・・・!」  風の音で聞き取れなかったタカヒサは、大声で聞き返した。  「何です!? アオタさん!」  「クジラだ!」  もちろんタカヒサには、その意味が判るはずも無かった。ただ、自分が見た物が幻想などではなく、何らかの合理的な理由の有る事象らしい事を知り、チョッと胸を撫で下ろすのであった。その『クジラ』とは何の事か? 後でゆっくり話を聞こうとタカヒサは思った。
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