第七章 : 毛糸の手袋

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第七章 : 毛糸の手袋

第七章 : 毛糸の手袋  「以上が、取り調べで麻太郎が自供した、事件の概要です」  若い刑事は手元の分厚い資料をぱたんと閉じた。うだるような熱気が六畳ほどの部屋を満たし、そこに居る者の集中力を削ごうと躍起になっているかのようだ。壁の上の方に取り付けられた扇風機は。先ほどから「ぶうん」という低いうなり声を上げながら首を振り、その熱気との戦いを繰り広げていたが、どうやら勝ち目は無さそうだ。刑事の前に置かれたコップに注がれてあった麦茶は既に無く、周りに付着していた水滴すらもカラカラに乾きつつあった。一方、向かいに座る女の前のコップには、まだなみなみと麦茶が残っていた。女は一口も手を付けていなかった。刑事はその麦茶を見て、ごくりと唾を飲み込んだが、椅子の背もたれに掛けておいた背広の懐からハンカチを取り出して、額や首筋に流れる汗を拭うだけにとどめておいた。  開け放たれた窓際に立つもう一人の年嵩の刑事は、外を眺めながら忙しなく扇子で扇いでいる。夏の盛りの蝉の声が、神経を逆撫でするような勢いで鳴き続けていた。半袖のワイシャツの脇には汗染みが浮き出て、こちらもハンカチで汗を拭うのに忙しい。ただし、その全神経は若い刑事が読み上げる事情聴取内容を一つ一つ再確認していた。女は言った。  「麻太郎さんは・・・ これからどうなるのでしょうか?」  若い刑事は答えた。  「これから公判が始まり、そこで刑が確定します」当たり障りの無い、判で押した様な模範回答であった。女の聞きたいことは、その答えの中には何一つ含まれてはいなかった。  「はぁ・・・」女は消沈した様子で言った。  そのやり取りを聞いていた老年の刑事が、二人が向かい合う机の脇にやって来た。部屋の隅のパイプ椅子を引き摺って来て、二人とコに字を描くような位置に座った。  「麻太郎が送検されとるのは、田島屋の事件だけです。谷村の件も、尾根村の件も、何処からも被害届が出ているわけではおまへん。ご存知の様に、目撃証言も得られる状況ではあらしませんし、有るのは本人の供述だけです」  女は黙って頷いた。  「奴が育った環境を考えれば情状酌量の余地が有りますし、自供通りなら、心神喪失っちゅう医者の判断が下って減刑の可能性も無いことは無いんですが・・・ やっぱこんだけの大量殺人犯っちゅうことになると、裁判官の心象は悪うなるでしょうな。放火だけでも結構な重罪ですし・・・」  老刑事は言葉を探した。「極刑」、「死刑」に代わる言葉。  「おそらく、麻太郎が生きてしゃばに出てくることは、無いんやないかと思います」  女は深く項垂れた。老刑事は手元の資料を見ながら訪ねる。  「大変心苦しいんですが、一点、確認させて下さい。この供述書に有る雪乃さんに関する部分・・・ 麻太郎の供述の通りということで宜しいでしょうか?」  「はい、相違ありません」雪乃は頷いた。  「もしそうであれば、奴にはあんさんに対する強姦致傷の容疑もかかってきますが・・・ 被害届を出さはりますか?」  雪乃は黙って首を振った。代わりに訪ねた。  「麻太郎さんに逢うことは、出来ひんのでしょうか?」  若い刑事は困ったように頭を掻いた。老刑事が答えた。  「それは・・・ 無理でしょうな。さっきも申しましたが、奴は前代未聞の大量殺人犯や。通常通りの手続きでっちゅうわけには行かんと思いますわ」  「さよですか・・・」雪乃の声は消え入りそうだった。  「じゃぁ、教えて下さい。逮捕された時、麻太郎さんはどんな様子でしたか?」  少し詰め寄る様な感じで、雪乃は老刑事に問い質した。本来なら捜査の経緯などを明かすことは無い。しかし雪乃は被害者本人であるし、兄を殺された遺族でもある。それを聞く権利は有るはずだ。老刑事は少し考えてから話し始めた。  「元々、田島屋の方では、初音さんと麻太郎が突然姿を消したもんやから、二人して駆け落ちしたんやろう、ということになっとったんですわ。二人が深い仲になっとる事は、社長はんも含めて、従業員全員が承知しとったというのも有ります。ところが、たまたま虫干しの為に開けた蔵の中から、二体の腐乱死体が発見されて大騒ぎですわ。身分の違いを苦にした二人が、無理心中したんとちゃうか、って事になったんですが・・・ どうも男性の方のがたいが良すぎる。麻太郎はもちょっと小柄やった筈や、ってなって事件の発覚に至りました」  雪乃は焦点の合わない眼差しを、机に向けて聞いていた。その当時のことを思い出しているのだろうかと、老刑事は思った。  「しかもその遺体を調べてみたら、男の方は頭が半分ほど無うなってて・・・」  そこまで言ってから老刑事は、今、目の前に座る雪乃が殺された長次郎の実の妹であることを思い出した。  「すみませんでした。つい気配りの無い言い方をしてしまいました」  雪乃は小さな声で「いいえ」と言った。  「おまけに、その傍らには血の付いた鉈が落ちてましてな」  「・・・・・・」  「ご存知の通り、その男性は長次郎さん。つまりあんさんのお兄さんやったわけでして。ほなら麻太郎はどこ行ったってことになります」  無反応な雪乃を気遣うような視線を向けた老刑事に、視線を上げた雪乃の眼差しが突き刺さった。その目は「早くその先を聞かせろ」と促していた。  「我々は麻太郎が生まれ故郷に逃げ帰ったと踏んで、尾根村に足を運びました。でも、そこに村は有りませんでした。黒焦げになった残骸だけが残されてて・・・ でも、手分けして調べ回った結果、村外れの神社に隠れ住んどる麻太郎を発見したんです。発見された時、奴は地べたに座り込んでわらべ唄を歌っておりました。気の触れた華を膝の上に載せて、ぎゅっと抱き締めながら。私は、麻太郎も気が触れてしもたんやないかと思ったくらいですわ。供述通りなら、奴はそこで華と二人で、三週間ほど暮らしていたことになります。最後の最後に、二人はやっと添い遂げたということかもしれまへんな」  「さよでしたか・・・」雪乃は再びそう言った。  「差し入れやったら出来ますが」慌てて若い刑事が言った。それを聞いた雪乃は、嬉しそうに手さげ袋の中から何かを取り出した。それは茶色い毛糸で編まれた手袋であった。しかも片方だけ。このくそ暑い季節に。不可解に思った老刑事が聞いた。  「これは?」  「麻太郎さん、左手の火傷の痕が引き攣れて、時々、痛うなるんです。温めると痛みが和らぐ言うてました。これ、渡して貰えますか?」  それを手に取った若い刑事は言った。  「判りました。これは責任持って私が渡しときます」  「おおきに」と雪乃は礼を述べた。  そこで思い出したように老刑事が聞いた。  「もし、お答えにくいようでしたら断って頂いても構わんのですが・・・ ひとつお聞かせ願えまへんやろか?」  「はい」と雪乃は老刑事を見た。  「あの時・・・ あんさんが麻太郎に乱暴された時、どうして犯人が麻太郎やとお気付きにならはったんですか?」  雪乃はちょっと考えてから、きっぱりと言った。  「うち、女ですから」  言ってる意味が判らず、老刑事は聞き返した。  「どういう意味でっしゃろ?」  「相手が好いた男やったら、女なら直ぐに判ります。目を塞がれてても、声が聴けへんでも。女って、そういうもんです」  二人の刑事は顔を見合わせた。暫くの間、沈黙が部屋を満たした。その時は誰も暑さを感じていなかった。重厚な蝉の声だけが、時間の流れを確かなものにしていた。  気を取り直したように老刑事が口を開く。  「では、今日のところはこれ位っちゅうことで」そう言って雪乃の退室を促した。  「また何か有りましたら、ご協力をお願いすると思いますが」  雪乃は「はい、よろしゅうお願いいたします」と言って席を立った。そして出口のドアの前に立ち、取っ手を回そうとしたが、どうしても回す事が出来なかった。老刑事が目くばせをすると、若い刑事がさっと駆け寄り、代わりにそれを回す。  「おおきに。うち、手が不自由なもんですから」  軽く会釈をしながら、若い刑事が開けたドアを通る間際に雪乃は立ち止まり、そして振り返った。  「刑事さん・・・ 華さんは今、どうしてはるんでしょうか?」  老刑事は一瞬、虚を突かれたが、直ぐに立ち直った。  「華は今、伊勢の方に有る施設に入れられて療養してます。そこの住所やったら、お教え出来ますが・・・ 逢いに行かはりますか?」  老刑事の窺うような視線に対し、雪乃は微かに笑って首を振った。  「いえ・・・ やめときます」  雪乃はもう一度、頭を下げると、そのまま暗い廊下の向こうに消えて行った。
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