第一章:真っ赤さん

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3  その日以来、藤一郎は風呂桶に代わる物を探し始めた。そして遂に見つけたのが、近くの石油店跡に転がっていたドラム缶である。幾分ひしゃげてはいたが、それは叩けば直せるだろう。むしろ重要なのは、水が漏れないことである。藤一郎は、そのドラム缶を転がして運び、例の小石川の池で水を入れ、穴が開いていないか確認した。  「よし。これなら大丈夫だ」  藤一郎は瓦礫の山から、比較的まともな形を保ったコンクリートブロックを持って来ると、ドラム缶の下に敷いた。これにより、薪をくべる空間を確保したことになる。そうやってこしらえたドラム缶風呂を、池の畔の周りから見通せない奥まった所に設置すると、早速お湯を沸かしてみた。実際にやってみると、調子良くお湯が沸くではないか。お湯の熱さを確認すると、なんともいい湯ではないか。藤一郎は喜び勇んで服を脱いだ。  ところがだ。どうしても入れない。何故ならば、ドラム缶の縁は人の腹の高さほどもあり、とてもじゃないが跨いで入れるような高さではないからだ。何とかして片足を上げて跨ごうとしても、やはり無理だ。おそらく脚立か何かを調達せねばなるまいと思った藤一郎であったが、とりあえず今日のところはどうにかして入ってみようと考えた。今さら服を着て脚立を探しに行くのが億劫だったし、その間にせっかく沸かしたお湯が冷めてしまうからだ。素っ裸のまま暫く思案した結果、藤一郎は気が付いた。偶然にも、このドラム缶風呂の横には、大きな銀杏の木が生えているではないか。その枝を伝ってドラム缶の上にまで行き、そこから飛び込めば良い。その完璧なシナリオに藤一郎は上機嫌であった。藤一郎は早速登り始めた。もちろん全裸だが、そんな事には構っていられない。子供の頃、よく近所の神社で木登りなどをして遊んだものだ。この程度であれば「お茶の子さいさい」である。  太い枝を伝ってドラム缶の上まで移動し、下を見た。もう少し先だ。枝がしなって藤一郎の身体も揺れた。そしてドラム缶の真上の位置を確保し、気合の声と共に思い切って飛び降りた。  「えぃっ!」(ザッブーン!)  藤一郎が飛び込んだ瞬間、その弾みでドラム缶からお湯が勢いよく溢れた。だがそれは、ずいぶんと長い間忘れていた感覚であった。熱いお湯に浸かるなんて、いつぶりだろう? 藤一郎が「ふぅーっ」と長い息を吐いた瞬間、ちょっと熱すぎることに気付いた。というか、鉄板のように熱せられたドラム缶の底に、藤一郎の尻が焼き付いた。  「あちちちっ!」  当たり前である。直火で炙った鉄板が熱くないはずはない。藤一郎は急いで出ようとしたが、それは叶わぬ願いであった。入る時に苦労したように、出る時にも同じ苦労が必要なのだ。そんな当たり前のことに、今更ながら気付く藤一郎であった。  「あちち、あちち!」  ドラム缶の中で阿波踊りのように暴れる藤一郎の足の裏は、焼けた鉄板により容赦なく攻め立てられた。ぴょんぴょん跳ねて、銀杏の枝に掴まろうとしたが、とても手の届く高さではない。そして遂に万策尽きた藤一郎は、ドラム缶ごと倒れ込んだ。それ以外の選択肢は無かった。  ひっくり返ったドラム缶と共に大量のお湯が流れ出し、盛大な湯気が立ち上った。そのお湯は小石川後楽園の池に向かって流れ、藤一郎も一緒に転がった。泥にまみれた顔のまま急いで立ち上がり、なおも「あちち、あちち」と裸踊りの様な風情でジタバタしていると、そこに例の三人組が現れた。藤一郎の動きが止まり、娘達も息を飲んで立ち尽くす。三人と一人の視線が交錯した瞬間、娘たちが悲鳴を上げた。  「きゃぁぁぁーっ!」  「変態よーっ!」  三人は踵を返すと、脱兎のごとく駆けだした。その際、サダだけはクスリと笑いながら、藤一郎の方を振り返りつつ、あとの二人と共に走り去った。それが藤一郎とサダの馴れ初めであった。  「ってか、おかしくない? それが馴れ初めなの、おばあちゃん?」  「そうだよ。ダメかい?」  「い、いや、ダメじゃないけど・・・」  「その日以来、爺さんは毎日、風呂を沸かして私たちを待っててくれたのさ。嫁入り前の娘が池で行水なんてダメだ、とか言ってね」  「ふぅ~ん・・・ つってもドラム缶でしょ? あんまり変わらないような気がするけど。お爺ちゃんもその場に居るわけだし」  「いやいや、爺さんは人目に付かない所にそれを置いて、私たちが来たらプィと何処かへ行っちまったもんだよ」  本当は陰から覗いていたくせに、と京子は思わずにはいられなかった。
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