第三章:ノー・スイミング、ノー・パンツ

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2  訳の分からない外国人観光客を追い返すと、静寂が訪れた。いつもの『華の湯』の風景だ。時折、浴室から聞こえる、風呂桶がタイルの床にぶつかる甲高い音。桶から背中に流すお湯の音。それらは浴室の壁で反射して、不思議な木霊となって伝わってくる。それらの音の間隙を埋めるような、ぶぅんと唸る扇風機の音。籐の脱衣籠が床に当たる音も、銭湯の音楽にアクセントを加えている。それら全てが、慣れ親しんだ居心地の良い音であった。番台に戻った京子は、やっと人心地を付くのを感じた。  「ったく・・・ 『外国人お断り』の張り紙でも出そうかしら・・・」  そうつぶやいた瞬間、男湯側から見上げる敏文の視線に気が付いた。普段、彼が営業中に顔を見せることは無い。何か用事が有るのだろうと思い、京子は尋ねた。  「何? 何か用事?」  敏文は京子の顔をジッと見上げて言った。  「お姉ちゃんさぁ、もうチョッと英語勉強した方がいいんじゃないの?」  さっきの外国人観光客相手の奮闘を見ていたに違いない。だったら手を貸してくれたっていいのに! 京子はムッとして声を荒げた。  「大きなお世話よっ! だいたい私は英語が嫌いなのっ!」  京子とは異なり、敏文は勉強が出来る。まだ中三だが、既に京子の知らない事を色々知っているのだ。というか、中学の授業で習ったことを、京子が覚えていないだけなのだが。そんな出来の悪い姉に、最近では冷たい視線を容赦無く投げかける敏文に、京子は何となく凹まされることが多くなった。  おそらく敏文は、京子とは違う高校を受験するのだろう。あんな三流の高校に行くはずは無い。出来の良い弟が自慢の種になるのは、自分も出来が良い時に限るということを痛感する京子であった。  それでも何も言わない敏文に苛々が募った。  「だから、何の用よっ!?」  そんな京子に、思いもよらぬ言葉を敏文が投げかけた。  「お姉ちゃんの高校ってさ、天文部は有るの?」  「はっ?」  あまりにも意外な質問に、ビックリして声の出なくなった京子が口を開けたまま固まった。  「な、何でそんなこと聞くのよ?」  やっとの思いで絞り出した言葉に、敏文が平然と答えた。  「だって俺、天体観測とかしたいから」  京子は目をシロクロさせた。何を言っているのだコイツは? 自分が何を言っているのか、判っているのだろうか?  「ちょ、ちょっと待って。何でアンタがうちの学校に来る前提なの? おかしいでしょ、それって」  「何でだよ。何で俺が行っちゃいけないんだよ?」  「だってそうじゃん! アンタがあんなアホ高校に行ってどうすんのよっ!? もっとレベルの高い・・・」  「アホ高校に通ってたって、勉強はできるじゃん」  そこは否定しないのか。まぁ、確かに「アホ高校」だけど。  そんなことより、自分の弟が大きな過ちを犯そうとしていることの方が重大だ。敏文は間違っている! 今、人生を踏み外そうとしている! それを止めるのは、姉としての自分の責務ではないのか!  「いやいやいやいや、アンタがうちの学校に行く理由が無いでしょ、理由がっ!」  「だってお姉ちゃんが居るじゃん」  「へっ?」  私が居るから? 私と同じ学校に行きたい? 何、この胸がキュンとするような感じ? なんだか嬉しくて、じんわりと涙が溢れてくるようなこの感じ? これじゃまるで、クソ生意気な弟が、実は可愛くてしょうがないみたいじゃん! 姉弟という私たちの間に、他人が入り込む余地が無いくらいの絆が育まれているみたいじゃん!  京子は自分の顔が火照るのを感じた。顔だけではない。身体全体が火照って、先ほどから妙な汗が噴出している。学校でイケメン男子に声を掛けられたって、これほどまでに動揺したことなど無いに違いない。だが、実の弟に、そのような狼狽えた姿を見せるわけにはいかない。思わず足元の団扇を手に取り、京子はパタパタと扇いだ。何事も無いかのように装って。  そんな京子の内なる葛藤を知ってか知らずか、敏文は冷静な態度で言った。  「天文部が有るならいいんだ。じゃ」  そう言って立ち去ろうとする弟に、京子は慌てて声を掛けた。  「待ちなさいよっ! 私は認めないからね! あんなアホ高校に来るんじゃないよっ!」  自分で言いながら落ち込む京子であった。敏文はそんな姉を無視し、右手を上げながら姿を消した。  「はぁ~」とため息が漏れた。  可愛いんだか憎たらしいんだか・・・
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