第四章:ボン、キュッ、ボン

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3  その時、女湯の引き戸を開けて新しい客が入って来た。「ちぃーす」と言って460円を番台に置くその女は、京子の学校の先輩であり、高校生当時はバスケットボール部のエースとして、全校女子生徒の注目の的であった香名恵だ。身長170cmを超えるその肢体は日本人離れした抜群のプロポーションを誇り、短くカットされたボーイッシュなヘアースタイルと相まって、後輩女子からのラブレターが毎朝、下駄箱の中から溢れ出る様な有様だった。チンチクリンの京子にとっても彼女は、手の届かない芸能人の様な憧れの存在であったのだ。彼女が高校を卒業する時は、全ての女子生徒が涙に暮れたものだったが、京子だけは「銭湯繋がり」という特権で、いまだに、いやむしろ以前よりも親しく香名恵と付き合っていることが、心密かな自慢でもあった。高校卒業後の香名恵は、その美貌とスタイルの良さを活かし、モデル事務所に所属しながら雑誌のモデルやグラビアなどの仕事をしている。何を隠そう、京子の愛読紙ミス・ハイティーンにも、たまに香名恵が登場する。  そんな香名恵は持ち前のサバサバした性格もあって、まるで江戸っ子気質の権化みたいな存在で、「風呂は銭湯に限る」と言ってはばからず、今でも『華の湯』を贔屓にしてくれている。その実、彼女が銭湯にやって来るのは、大きな鏡に自分の裸体を映し出し、その美しさに自己陶酔しつつ、余分な脂肪の定着を監視するボディチェックの為でもある事を京子は知っていた。  「あっ、香名恵先輩。いやっしゃい」  「おぅ、京子。元気でやってるか?」  そんな会話を交わした後、香名恵は服を脱ぎ始めた。女が女を美しいと思う瞬間とはまるで女神の悪戯のようで、男には訪れることの無い神聖な一瞬なのだ。そんなことを考えながら、その姿をほれぼれしつつウットリと見ていた京子であったが、そのうち、何やら不穏な雲が立ち込める様な気分に襲われた。  「何だ?」  嵐の予感とでもいう様な、何とも言えない嫌~な感じが京子を包んだ。  「何だろう?」  このままでは何かが起きそうだ。でも、それは何なのだ?  そうしてやっと、それが何なのか京子には判った。あの金髪女性だ!  自己顕示欲の塊である香名恵が、あの女と全裸で鉢合わせをしたら、いったいどんな事が起こるやら。京子はその修羅場を想像し、背筋が凍る様な思いがした。「先輩! 行っちゃダメ!」そう言おうとした時には、既に香名恵は浴室の引き戸を開けていた。  二人が交わす視線が火花を散らした。そんな現象は小説の中だけの表現に過ぎないと思っていたが、実際に飛散る火花を見たと京子は思った。突然、自分のテリトリーに現れた得体の知れない敵、しかも強力な敵に違いない相手に対し、香名恵は臨戦態勢に入った。金髪の方も香名恵の存在を認め、「日本人にしては骨が有りそうなのが出て来たじゃないの」みたいな表情で見据えた。香名恵は金髪の隣の隣に陣取った。なぜなら金髪の隣りには、あの入れ歯のおばあちゃんが座っていたからだ。香名恵は思った。相手がスタンディングで来るなら、自分もスタンディングで応戦しよう。入れ歯のおばあちゃんは、地上げに取り残され、ビルとビルの狭間に残ったみすぼらしい民家の様に金髪と香名恵の間に挟まれ、どっちを見ていいのか判らなくなっていた。  金髪はサッと右腕を伸ばすと、左手で優雅にそれを洗った。それはフィギュアスケートの選手がポーズをとる様な、芸術的とも言える動きで、その指先一本一本にまで美へのこだわりが行き渡っていた。そのような動きが普通にできるのは、おそらく人から見られるという人生を歩んで来た人間だからに他ならない。それは一種、芸の道にも通ずるものが有る様に思えた。一方、それを見た香名恵は左足を台に乗せソープを手に取ると、むしろ妖艶な動作で応戦した。その淫靡な動きは、男性の目を意識しながらストッキングを履く大人の女性を思わせた。香名恵の滑らかな脚の上を滑る様に走る指先は、普通の男であれば悶絶必至の攻撃だ。  このジャブの応酬が終わると、次に金髪が繰り出した攻撃は強烈なフックであった。彼女の眩いばかりの容姿の決定的な要素の一つである「金髪」を洗ったのだ。長く伸びたその髪を全て右側に寄せ、そしてそれを労わるかのように両手で優しく。シャンプーのCMかっ!? と思わせる洗練された所作だ。この時、髪を右側に寄せるというのがミソである。つまり、香名恵の居る左側に顔を残したのだ。それはパンチを受けながらも、ガードの奥の目は相手の一挙手一投足を見据えている様な攻撃的な姿勢を表していた。香名恵だって負けてはいない。次に彼女は、その細く引き締まった腰を洗った。いくらプロポーションが良いと言っても、金髪は180cmを超える大柄なボディだ。その腰がくびれていたとしても、そこはそれなりのボリュームが有る。それに対し香名恵のそれは、日本人の華奢な体形がそのベースとなっているので、欧米人には無いくびれ感というか、ほっそり感が溢れ、女性らしさが強調されている。そこにソープを泡立てて、両手で引き絞る様に洗った。  入れ歯のおばあちゃんは、もう右を見たり左を見たりで大忙しだ。先ほどから開きっぱなしの口では、おばあちゃんが首を振る度、入れ歯がカタカタと妙な音を立てていた。一方、金髪の後ろにいて、そのお尻を拝んでいたおばあちゃんは、今は合わせた両手をブルブルと震わせて、「ナンマイダブ、ナンマイダブ」と、しきりにお経を唱えていた。  香名恵のくびれ攻撃は、金髪にかなりのダメージを与えていた。しかし金髪は、ロープを背負いながらもとんでもない逆転パンチを隠し持っていた。今こそそれをお見舞いする時だ。この極東のちっぽけな島国の女相手に、この必殺技を繰り出すことになろうとは。金髪は素直に、東洋の女の強さを認めた。だがしかし、勝つのは自分だ。この一線だけは譲るわけにはいかない。  金髪は両手に泡を立てると、それをおもむろに自分の胸に持っていった。そしてそのはち切れそうなバストを、ユッサユッサと洗った。彼女の両手は、外側から内側へ、内側から外側へ。時には下から上へ、上から下へ。またある時は、左右交互に上下を入れ替えて。しまいにはクルクル円を描く様に。香名恵はそれをまともに喰らってしまった。若干、足に来ているようだ。でもここで倒れてしまっては、二度と起き上がる事は出来ないであろう。こんな金髪野郎 ―いやいや、女だから野郎ではないが― に、この国で好き勝手させるわけにはいかない。その思いとプライドだけが香名恵の心の糸を繋いでいた。残った僅かな体力と精神力を振り絞り、香名恵は捨て身の反撃に出た。  右手に持った濡れタオルを「ぱぁーーーーんっ!」と背中に回すと、腰に据えた左手でその端をつかみ、背中に斜めにかけた。そして「うぉーーーーっ!」という雄叫びを上げながら、背中をゴシゴシと洗った。金髪は目を見開き、そこに驚愕の色を浮かばせた。  脱衣所のガラスに張り付き、中の成り行きを見守っていた京子は、目に涙を浮かべながら言った。  「香名恵先輩・・・ 何やってるんっすかぁ・・・」  その隣で同じようにガラスに張り付いていた幸恵が言った。  「あれま。さすがの香名恵ちゃんでも、アメリカさんには敵わないのかねぇ?」
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