第一章:真っ赤さん

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2  戦局は悪くなる一方であった。もちろん大本営の発表によれば、いまだに士気高く奮闘する日本軍は、大逆転を目論んだ秘密の作戦により米国を粉砕するのも間近と謳っていたが、激しさを増す空襲が、その見え透いた嘘を暴露していた。焼け野原となりつつある東京において、非戦闘要員の女子供にすら本土決戦が叫ばれていた。一般市民をも米兵に対する戦闘行為に駆り立てようとビラをばら撒く軍部の、恥も外聞も無い哀れな姿を見た市民は、この戦争が末期的な状況に有ることを肌で感じていた。  そして迎えた終戦。中には日本の勝利を信じて疑わなかった盲目的な連中も居たが、殆どは、愚かな軍部の暴走による「とばっちり」から解放されることを心から喜んでいた。そんな焼け野原に藤一郎は立っていた。彼は生まれながらに足が不自由 ─日常生活には支障は無いが─ で、徴兵されなかった身である。それをとやかく言う奴らも居たが、藤一郎はそんな陰口に心を痛めるほどのひ弱な青年ではなかったのである。  食う物にも困るような状況下で、人々はそれでも果敢に人生を生きていた。瓦礫の中から使えそうなものをかき集め、バッラック小屋を建て、街の復興が始まっていた。その逞しい姿こそが、本当に勇敢な日本人の姿であろうと、藤一郎は感じていた。  そんな「生きること」に誰もがガムシャラだった時代、藤一郎もご多分に漏れず闇市などで入手した、横流しの官成品などで空腹を満たしていた。疎開者が東京に戻ってくれば、更に食料が不足するかもしれない。生き延びた軍人たちも戻ってくるだろう。でも、東京がかつての活気を取り戻すためには、もう一度、あの人の波が必要なのに違いないと、藤一郎は思うのであった。  小石川の後楽園に有る池で行水をしていた時のことだ。今は夏なので行水でも構わないが、冬になるとそうもいくまい。藤一郎は、何とかして熱い風呂を調達せねばなるまいと考えた。薪なら有る。瓦礫と化した家屋が、木材の供給減だ。問題は風呂桶である。今時、水の漏らない桶など無かったし、沸かしたお湯を貯めるのも一苦労だ。何とかならないものかと思案しながら行水を続けていると、遠くの方から人の声が近づいてきた。どうやら女の声のようだ。しかも三人くらいは居そうだ。藤一郎は急いで行水を終わらせると、そそくさとその場を離れた。そして生い茂るツツジの陰に隠れると、近付きつつある女たちをそっと覗き見た。  女たちは、辺りに誰も居ないことを確認すると、スルスルと服を脱ぎ始めた。女たちも行水をしに来たのであった。水辺に全裸で戯れる三人の娘。彼女たちはお互いに水の掛けっこなどをしてはしゃいでいる。年の頃は十五六といったところか。「キャァーキャァー」という甲高い声が、小石川の森に溶け込んでいた。藤一郎は、今まで見た事も無いような、美しくも官能的な情景にただウットリと見とれるのみであった。これこそが藤一郎にとって終戦を実感させる印象的な風景である。これまでの禁欲的な生活が終わりを告げたことを、否が応でも感じさせる出来事であった。  その三人の中の一人が、特に印象的に藤一郎の心を揺り動かした。一人は小太りで意地悪そうな娘。もう一人は痩せて背が高く、しゃくれた顎が不細工だ。そんな中、その娘だけが太過ぎず細過ぎず、色白の肢体と優し気な笑顔が藤一郎の目に焼き付いた。藤一郎はその娘から目を離すことが出来なかった。この美しい娘が、後に藤一郎と結ばれるサダなのであった。  後からサダに聞いたところによると、あの時、藤一郎がツツジの陰から覗いていることに、サダは気付いていたらしい。  「ちょっと待って、おばあちゃん! おじいちゃんが覗いているのを知ってて裸になったの?」  「最初は知らなかったさ。でも皆と水浴びをしてる時に気付いたんだよ」  「どうして気付いた時に声を上げるとかしなかったの?」  「どうしてだろうねぇ・・・ 忘れちゃったねぇ・・・」  「・・・・・・」  本当に忘れてしまったのかどうかは判らなかったが、きっと二人はそうなる前から惹かれ合っていたのではなかろうか。そう考えた方が、なんだか優しい気持ちになれると京子は思った。  「それから、それから? それからどうしたの?」  サダは再び記憶の隅を掘り起こすように、目を細めた。  「それからも度々、爺さんはあたしたちの行水を盗み見ていたようだったねぇ・・・」  あのジジィ、ろくな奴じゃないなと京子は思った。
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