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彼が微笑む、それは合図だった。
終わりの合図だった。
「別れよう」
呟くように言われたその言葉に、驚きはしなかった。
いつか、こんな日が来るのはわかっていた。わかってはいたけれど、実際直面するとこんなにも苦しいなんて、知りたくなかった。
「……わかった」
私には、それを受け入れるしかなかった。
だって、さよならの理由はわかっていたから。
彼が背を向けて部屋を出て行こうとする。
咄嗟に伸ばしてしまった手を、反対の手で引っ込める。
それに気づいたのか、彼は振り向いて言った。
「ごめんな」
悲しそうな顔で、微笑んでいた。
彼には、ずっと想っている人がいた。
けれどその人にも想っている人がいたのだ。
一方通行の恋、それを彼はしていた。
彼にはそれが耐えられなかったのだろう。
彼の周りには常に誰かがいた。
そんな彼に惹かれた私もまた、彼にとっては重要でもない女の1人だった。
「俺はたぶん、あの人以外を愛すことなんて出来ない。一生。もしかして俺は、前世であの人に随分と酷いことでもしたんじゃないかって思うよ、時々。この恋は、呪いみたいなもので。夢にも出てくるんだ。あの人は俺に優しくて、ずっと笑っていて、でも、1度として俺の想いに応えてくれたことはないんだ。夢の中でさえ。でも、忘れられないんだ。あの人のことも、この気持ちも。消えてくれないんだ」
酒に酔って、そんな話をした彼を、私は抱きしめた。
可哀そうな人。
そうして彼が合図するその時まで、私は彼のそばにいた。
さよならの理由。それは、私を愛せないと心の底から思ったから。私を、次の恋の相手に出来ないとわかったから。
彼はきっと今日も、次の恋を探している。
夢にまで出てくるその人を、忘れられないまま。
彼が微笑むのは、そうすることでしか、気持ちを返せないから。
ごめんな。やっぱり駄目だった。あの人より君を愛せない。
それを、別れの時に言葉にしないのは、彼なりの誠意だろう。
だから彼を嫌いになれないのだ。
酷い人。
最後に微笑むなんて。
そうして思い出に残るのは、彼の綺麗な微笑みだけになるのだから。
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