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私もすっかり忘れていたのだが、幼い日に狐顔の行商人から貰い、庭に放り投げてしまった金木犀の種が芽を出し、いつの間にかすくすくと成長していた。それは秋になると芳醇な甘く馨しい香りを放つようになった。近隣でも私の家の金木犀は香りが良いと評判になり、かつて気味悪がってぞんざいに扱ってしまったことを私は時々後悔した。
秋になると、金木犀が花開くのを待ち遠しく思い、そして、花が咲くとその芳香が家の中で最も濃く香る縁側で、私は多くの時間を過ごした。
その日も、縁側でお茶を飲みながら本を読んでいると、金木犀が咲く板塀の向こう側から、若い女性の朗らかな声が聞こえてきた。
「本当に、いい香りね。うちの金木犀よりも、ずっといい香りがする」
「はい、お嬢さん。これを匂い袋に入れて持ち歩いたら、きっと素敵でしょうねぇ」
もう一人は、婆やと思われる声だった。
「でも、勝手にとってはだめよ。これは人様のものですもの」
「はいはい、わかっておりますよ。それよりもお嬢様、そろそろ急がないと先方を待たせることになってしまいます」
「ええ、でも、もう少しだけ」
あまりにもその声が名残惜しそうなので、私は板塀の向こう側に向かって声をかけた。
「よろしければ、好きなだけ摘んでいってください」
相手の驚く様子が塀越しに伝わってきたので、私は縁側を降りて、板塀の木戸を開けて顔を出した。そこには浅葱色の振袖を着た美しい女性が立っていた。それが妻との出会いだった。
妻は隣村の裕福な庄屋の娘さんで、家柄にしても器量にしても私には勿体ないくらいだった。
妻との結婚が正式に決定した日、私は例の行商人に言われたことを、ふと思い出した。
―――これは後々、御前さんに良いものをもたらすだろう。
男の予言は、確かに成就したといえる。
そして、狐顔の男が叔父にしたもう一つの予言も、長い時間をかけて見事に成就したのだった。
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