柏木奇譚

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夏の思い出は、いつもヒグラシの鳴き声と共にある。  私が狐顔の、不思議な行商人に出会ったのも、確かカナカナカナという蝉しぐれが降り注ぐ、逢う魔が時と呼ばれるころだった。  私は豆腐屋からの帰りで、小さなたらいに豆腐を二、三丁ほど入れて、それをたぷたぷと揺らしながら歩いていた。雑木林と田圃の境界線になっている道を歩いていたのだが、夕陽に染まってそれらはどちらも色褪せ、辺りはどこか物悲しい、赤い色彩に沈んでいた。  私は二日に一回は行かされる、豆腐屋と家との往復にうんざりしていた。それというのも、豆腐が私の父の、そして序でながら惣領息子である私の兄の、大好物であったからだ。我が家の代々の当主たちは何故か豆腐を大の好物とし、しかも二日に一回は食べないと気がすまないという厄介な性質を備えていた。私や母や姉たちなどは、この当主たちの豆腐狂いは、何かの祟りじゃないかと陰口のようにひそひそと噂し合った。まあ、酒乱や賭博狂いに比べれば、豆腐狂いなんてものはかわいいものだが、夏の真っ盛りや冬の芯まで凍るような寒い日に、豆腐を買いに行かせられる私にしてみれば、溜まったものではなかった。  今日も夕刻にしては蒸し暑く、私は頬を流れていく汗を手で拭っては溜め息をついていた。そんなわけで、道の端に商売道具を広げて、店を開いている行商人がいたのだが、子供らしい好奇心でそれを覗こうとする元気がその時の私にはなかったのだった。それに、赤く染まっていた景色は、今度はだんだんと宵闇に沈んでいこうとしており、暗くなりきる前に、私は家へと着きたかったのである。 「おい、坊主、旨そうなものを持ってるな」 と私はその行商人に呼び止められてしまった。辺りには私しかいない。惚けることもできないので、私は足を止めて行商人を振り返った。 「豆腐のことですか?」 と聞くと、 「いや、それじゃない」 と男は笑った。細面の、吊りあがった糸目の男だった。その顔は、どこか狐を思わせた。さて、豆腐ではないとすると、 「油揚げのこと?」 と私が再び訪ねると、男はそうだと頷いた。私は驚いた。私の着物の袂には、油紙につつんだ油揚げが入っていたのだが、どうしてそのことがわかったのだろう。私がいぶかしんでいるのを察して、男は、 「自慢じゃないが、俺は鼻がとてもいいんだ。御前さんから、お揚げの香ばしいにおいがぷんぷんする」 と嘯いた。
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