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春が通り過ぎて、やがて暑い夏がやってきた。
いつもの駅、いつもの時間、いつもの場所にいると彼女がやってくる。
夏服に変わった彼女は涼しげで、長い黒い髪はポニーテールにしていた。
「ねぇ、夏好き?」
「……暑いからいまいち」
「そう?暑いけど美味しいものは多いわ」
スイカとか、かき氷とか、と指を折って数え始めた彼女を僕は黙って見つめていた。
「私、海が好き」
「海?」
この駅のホームの向こう数十メートル先には海岸がある。僕の視線は彼女から海へと移った。天気がいい今日の海は、地平線の果てまで青が続いていた。
「特に海の青い色が好きなの」
そう言った彼女に僕は何も答えることができずにいた。
「目、生まれつき見えないわけじゃないの。昔は見えていたんだけど、病気でね……目が見えなくなる前に、連れって言ってもらったの。夏だったわ。家族で海を見に行ったの。とても綺麗だった……どこまでも綺麗な青が続いていたわ。絶対にあの青は忘れられない」
潮の匂いのする方へ顔を向けてそう言った彼女の顔は、まるで手に入れることのできない憧れを回帰するようだった。
僕はつい、うっかりというべきだろう、言ってしまった。
「見たい?」
小さなその一言を彼女が聞き逃すはずもなく「……見たいに決まってるじゃない」と言った。僕の言葉に怒っているわけでもなく、その表情はただただ切ないものだった。
僕はぎゅっと自分の手を握った。
脳裏で「言ったら彼女が離れていくよ」と「彼女に海を見せることが出来るのは僕だけだよ」という言葉がグラグラと心を揺らす。
彼女はその後何も言わず海が見えるはずの場所を見ていた。
その横顔は美しくて、彼女になら言ってもいいと思った。嫌われても、離れていくことになっても、彼女に青を見せてあげたいと思った。
「僕、超能力が使えるんだ……なんて言ったらどうする?」
「超能力?」
彼女は首を傾げる、いきなり何を言い出すんだとでも言いたそうだ。
「海、見に行こう」
今日は学校をサボタージュすることに決めて、僕は彼女の腕を引いた。
「待って、どこ行くの?」
「海のちゃんと見えるところまで」
無人駅の便利なところはこういう時に駅員に呼び止められないことだと僕はその時思った。
砂浜までゆっくり彼女の手を引いて歩いた。
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