14 ピムリコ事件

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14 ピムリコ事件

 犠牲者Aはピムリコ事件の真犯人だった。  1886年のロンドンのピムリコ地区で発生した事件だ。  被害者はトマス・エドウィン・バートレット。  犯人は妻アデレード・ブランシュ・バートレット。  致死量のクロロホルムが、トマスの咽喉や食道に損傷を与えていないにも関わらず、その胃から見つかり、そしてそれがどのようにしてそこに至ったのかその証拠がなかった。アデレードは、夫の殺害の嫌疑で裁判に付され、そして無罪放免となった。陪審の法廷における発言によれば、ミセス・バートレットの無罪放免は、ひとつには検察側がどのように犯罪が実行されたか証明できなかったことによる。  ピムリコの謎の核心は、富裕な食料品商人ミスタ・トマス・エドウィン・バートレット(1845年 - 1886年)、フランス生まれの妻アデレード・ブランシュ・ド・ラ・トルモイユ(1855年生まれ)、およびアデレードの後見人で夫婦のスピリチュアル・カウンセラーで友人であるジョージ・ダイソン師のあいだの奇妙な関係である。ダイソンは、メソジスト派の聖職者で、そして、エドウィンの許可を得てアデレード・バートレットを公然と口説くように勇気づけられた。エドウィン自身は、不愉快な病気(朽ち歯、それからことによるとサナダムシにも)にかかっていた。    エドウィンは、動物磁気を健康の鍵と信じている、いくらか一時的な流行を追いかけるところがあったと想像される。しかし、他方では、彼の風変わりなところと報じられているものは、一部はアデレードとダイソンの両者から聞知されたことに基づいており、両者ともに嘘をつく理由があったかもしれない。アデレードの父は、裕福な、そしてことによると称号を有するヴィクトリア女王の随員の一員でさえあると噂されたが、これは本当に1855年にフランスを訪れていたが記録されている。  エドウィンとアデレードは1875年に結婚した。アデレードによれば、プラトニックな結婚が意図されたが、しかし1881年に彼女はエドウィンの子を死産した。エドウィンは、難産中に(男性)医師を呼ぶようにという、(女性)子守の忠告を断ったが、これは、彼が別の男に『彼女を妨害』されたくなかったからである。  1885年前半に、二人は、地元のメソジスト派の聖職者ダイソンに会い、そして彼はしばしば訪問するようになった。      
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