― 序 ―

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姫川(ひめかわ)さん? あの、生きてます……か?」 「……()きてますか、だろ。勝手に(ころ)すな」 「あ、そうです。そうでした」  あははと笑って(つくろ)うと、姫川(ひめかわ)さんはゴキッと首を()らしながら、それを(ゆる)(かし)げるようにあらためてオレを見た。 「で。(なん)()だって?」 「だから9時20分ですってば。()こさなくてもよかったで――うわぁっっ」  たすき()けた鞄のベルトをいきなり強く引き寄せられ、オレはやや腰を落とした体勢のまま、姫川(ひめかわ)さんの上へと(たお)れこむように身を(くず)した。 「ひっ、姫川(ひめかわ)さんっ! あの……っ」  ソファーの背に両手をついて、上半身がのしかかりそうになるのを必死に(こら)える。 「ふうん」  ()(いき)のような声が顔面を(かす)め、ぞわっと毛穴が(なみ)()った。(たが)いの唇が()れそうなその距離に、()(あせ)ともつかぬ(しずく)がつうと(ひたい)を流れ落ちる。  ――ち、近いしっっ……。 「なぁ」 「はいぃっ」  かえす声が(うら)(がえ)ってしまったのは、いささか(いだ)いたやましさのせいだろうか。  だって……。  なんかこのひと()()けで、ものすごーく色っぽいんです……け、ど。  ぐいぐいと(ひも)を引かれ、それでもオレは腕をぷるぷるさせながら(けん)(めい)()えた。どうせならこのまま抱きついてしまいたい気もするが、しかしながら脳内(のうない)の男心をもってしても、身体(からだ)が勝手に逃げを打つのだ。動物的な感覚……たぶん、怖いから? 「な、なにかっ……?」  虫の(いき)で続く言葉を(うなが)すと、姫川(ひめかわ)さんが耳元(みみもと)近くでぼそっと言った。 「鞄に汗。おまえ、今()たな?」  (かす)れ声でささやかれ、その文言(もんごん)にぎくりと身体(からだ)(こわ)()った。 「あ……いえ、その……」  しまった……。  セーフだった(あん)()(かま)けて、()(そう)するどころか鞄を()ろすことすら忘れていた。
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