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koi ≫乞い?
「でこ痛え」
夕方、外出先から戻ってくるなり、姫川さんが開口一番オレへと言った。
「りんのせいでたんこぶできた」
週末までの数日間、耳にタコができるほど聞かされているフレーズだ。いつになくしつこくて、何度謝ってもいまだ許しが得られていない。
「……すみませんって」
でもオレだってその実害は同等……いや、それ以上と言っていい。こぶはできたし顎は青く痣になるし、なのにこの散々な言われよう、謝罪を積み重ねてはいるものの、多少、反論したくもなってくる。
「痛い。痛い。あー痛え……」
けれど今は言えない。言えるはずがない。なぜなら……。
「鈴村くん。ケータイ鳴ってる」
「え? あ、本当だ……」
ここにこうして、安藤さんがいるんですもの。
……しかも耳いいし。
空気を揺らす微震を手にとり、その画面を確認する。メールの内容を読むふりをしてこっそり向かいを盗み見た。綺麗な姿勢でディスプレイを見つめる安藤さんは、なにかを考えているような面持ちを浮かべ、長い指を机の上でこつこつと鳴らしている。一方、姫川さんはオレへの攻撃を解除したのか、ソファーに鞄を放り投げ、そこからとりだした書類の文面をおざなりにながめていた。粗略な所作で首へとかけた白いタオルは、昨日、見るに見かねてオレが洗っておいたのだけれど、そんなことにはまったく気づいていないだろう。姫川さんはそういうひとだ。そして安藤さんはその反対で……。
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