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その日の夜。わたしは不知火家の屋敷の中にある稽古場で一人、稽古に励んでいた。
稽古といっても特別なことをするわけではない。稽古場に置いてある、先祖代々伝わる置物を見ながら精神統一をする。ただそれだけ。
その置物もどこで採れたかわからない謎の石で、要は《除蝋術》を使う際の集中力を養うための訓練なので、何だってかまわないのだ。
心を鎮め、眼が熱くなるのを感じながら、わたしは集中する。普段は走り込みのトレーニングをする方が圧倒的に多いので、この稽古場に来るのも久しぶりだった。
お母さんが稽古場に入ってきた。いつもは稽古の時にお母さんが観に来ることはない。今日だけは、わたしが大事な話をするために呼んだのだ。
「話って、なに?」
お母さんはまだお風呂に入っていないので、私服姿のままだった。
わたしとお母さんは正座で対面する。田舎町の外れの屋敷、周囲からは物音一つ聞こえてこない。木材の床から、ひんやりと冷気が感じられる。
「実は…」
同級生に《除蝋師》の仕事のことを話してしまった。そう言ってしまっても、おそらくお母さんは怒らないだろう。
何故なら、今までわたしはお母さんから怒られたことがないから。今回も多分、わたしを怒らない。
それでも、わたしはこのままお母さんの優しさに甘えていいはずがない。
わたしはお母さんに、今日のことを話した。《蝋魔》という存在と、わたし達の仕事のことを、一人の同級生に話してしまったことを。
「……」
お母さんは黙ったまま、苦虫を噛み潰したような顔になる。何か言いたいことがあるのだろう。それでも…。
「あなたが仕事のことを話したくらいなら、すごく信頼できる友達なのね」
案の定、お母さんは怒らなかった。
「ごめんなさい。周りに言いふらすような子じゃないし、ちゃんと誰にも言わないようには言ったよ」
「そう」
お母さんは立ち上がり、両手をいっぱいに広げた。わたしは立ち上がり、お母さんの胸の中に収まる。お母さんはぎゅっとわたしを抱き締めてくれた。
「ごめんなさい」
改めて、謝った。
「いいのよ」
お母さんは腕の力をさらに強める。
「ごめんね」
この密着した距離でかすかに聞こえる声量で、お母さんはぼそりと言った。
わたしはこの時、お母さんが謝った意味を理解できなかった。
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