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日常
日付が変わり、二時間ほどが経った深い時間。玄関の引き戸から透けて見える外の世界には、暗がりが支配している。
わたしは玄関でランニングシューズの紐を結び、その紐がほどけないように縫い目の中に入れる。すっくと立ち上がり、両手を頭上に掲げ、軽く伸びをした。
背後から足音が聞こえてくる。
「灯子」
名前を呼ばれ、後ろを振り返る。お母さんが心配そうな面持ちで、脇差を手渡してくれた。その重みをずしりと両手で受け止め、柄を右手で握り締めた。
大事な時に抜けませんでした、なんてことがあってはならない。試しに鞘から刀身を抜いてみる。
かちゃりと音を立てて、刀身が黒く光る様を視界に入れた。《あれ》は鉛に弱い性質を持っている。この《得物》は《あれ》専用に作られたものだ。
「無理しちゃ駄目よ。怖いと感じたら、すぐに逃げなさい」
わたしは素直に頷く。
お母さんはこの世界では全国で五本の指に入るほどの《術者》だ。不知火敦子の名を知らぬ者は一人としていないだろう。そんな有能な母親の言葉を無碍にするはずがない。
世のため人のためではない。尊敬するお母さんの期待に応えるため。わたしは日々戦っている。
「行ってきます」
心配をかけさせないように元気よく、かと言って気を緩めてもいないと主張するように力強く、声を出した。
引き戸を開け、わたしは軽やかに外に飛び出す。後ろで結った髪が、ひらりと揺れた。
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