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天水綺譚
木の葉を透かして陽光が清々と降り注いでいた。
初夏の甘い芳香漂う森の奥で鳥が唄い、鮮やかな羽根を揺らめかせて蝶が視界を泳いでいく。
これ以上ないほど平和な景色のなかで、弥は死につつあった。
背に刀傷、逃走中に崖から滑落して折れた足は使い物にならない。傷の痛みは不思議と感じなかったが、心はじくじくと痛んでいた。
――己れは今度こそ終わるのか。
十年ほど昔にも彼は今とほぼ同じ状態に陥ったことがあった。そのとき命を救ってくれた娘の姿は今でも鮮やかに思い浮かぶ。
――あまね、
声なき声で名を呼ぶ。
――己れを捨ててどこへ行った……
すぐに違うな、とその思考を打ち消した。あまねが己れを捨てたのではなく、己れがあまねを捨てたのだ。天涯孤独の娘をあの日、己れは突き放してしまった。彼女の優しさに甘えて自分の都合しか考えなかった。捨て去ったのと何が違うだろう?
泣いてはならぬとの母の遺言を今まで忠実に守ってきたが、今、弥は無性に泣きたかった。
視線は葉陰からのぞく蒼穹に吸い寄せられる。空から舞い降りるあまねの姿が見えたなら、どれほど救われるだろうと思いながら。
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