見本帖

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見本帖

水縹(みはなだ)瓶覗(かめのぞき)水浅葱(みずあさぎ)、浅葱。 納戸(なんど)、縹、熨斗目(のしめ)、藍。 母はいろいろな青を染めた布を重ねて綴じた冊子をめくり、 「これは、これは、」 と色を私に答えさせる。 間違えると、「違う!」という声とともに 頭に手が飛んでくる。 色には濃淡でいろんな呼び名があり、 さらに人によっても、一つ一つの色の呼び名の範囲が違う。 「お母さんの色を覚えても仕方がないでしょ」 と文句を言うと母は 「基準(もと)が無いと自分の色なんて作れないんだよ。 先ずは私の色を覚えて、あんたの色はそこから」 と応える。 「次、媒染。イチイ心材」 母は別の見本帖をパッ、パッ、とめくっていく。 植物は媒染によって染まる色が違うのだ。 「ミョウバン、鉄、クロム…えと…」 「錫でしょ!」 見本帖をめくっていた手が頭をパシッと平手打ちする。 「そんなのいちいち覚えていられない!」 「覚えなさい。」 自分が正しいと信じて疑わない、 信念に満ちた口調。 三角に目を怒らせた母の顔には「なぜ」と問わせない威厳があった。 そんなことを、もう10年も続けただろうか。 母は、染めの事についてはぜんぶ正しい。 でも肝心のな前提が分かっていない。 私普通のサラリーマンと結婚して、転勤で引っ越し、 染めも紡ぎも織りもやらないのだ。
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