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暫く姿を現さなかった手嶋は、コリドー街にある老舗シャンソニエに日紗子が出演する夜、ひょっこりとやってきた。
日紗子を見つけて、笑顔で近づいて、「聞いたよ。レコード作るんだって?すごいね。」と他人事のように言う。「いえ、先生が応援してくださったおかげです。感謝しています。」と謝意を示すと、「何のこと、俺、何にもしてないよ。」と惚ける。
「それより、今夜は、どんな歌を聞かせてくれるんだい。」
「はい、アズナブールはお好きですか?」
「いいね。ラ・ボエームを頼む。俺、これでも昔、絵描きだったんだよ。」
「そうなんですか!それで。」
「あの歌を聞くと、貧乏アパートで必死で創作していたときを思い出してさ。」
「はい、心をこめて歌わせていただきます。」
「それはそうと、君は、ホールでリサイタルはしないのか?」
「お客様を呼べないので、シャンソニエでのソロライブがやっとです。」
「そうかい。みんな知らないだけなんだよ。レコードが売れるまでの辛抱だね。」
「売れればいいんですけど。」
と、そこまで会話したところで、MCのロベールさんが、「そろそろ第二ステージ、始まります。」と声を掛けてきた。場内が暗くなって、ピアニストの那須原さんがソロで「枯葉」を弾き始める。ジャズっぽい演奏だった。
リフォームした店内は、昔の雰囲気は残しているものの、サロンのような華やかさを醸し出している。店内にあるミニチュアの街燈は、かつて銀巴里にあった3つのうちの1つで、もう一つは渋川のシャンソン館に、最後の一つは美輪明宏さんの自宅にあるという噂を聞いた。惜しまれながら1990年に閉店した銀巴里は、文壇の人々が多く集まるシャンソニエで、三島由紀夫や野坂昭如、寺山修司、吉行淳之介が常連だったという。12月29日は、その名店の閉店にちなんで「シャンソンの日」とされたのは、シャンソン界では余りにも有名な話だ。
日紗子は、手嶋の優しいながらもどこかよそよそしい態度が正直気持ち悪かった。パトロンになろうとしているのは確実なのだが、本人はそんな素振りを一切見せない。詰め将棋のように、どんどん将棋盤の隅っこに押しやられていくような切迫感はなく、でも、或る日気付いてみたら、いきなり王手飛車獲りの窮地に追い込まれているような気がした。
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