奇妙な夢と鏡の世界

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奇妙な夢と鏡の世界

 きょうは心身ともに疲れた。  いつもよりずいぶんと早い就寝時間だというのに、一同はあっという間に眠りに落ちた。  だが……眠るのが早すぎたのだろうか、類が目覚めてしまう。  そこは緑が生い茂ったジャングルではなく、非常灯と火災報知機の赤ランプの光が目立つ夜の校内だった。  正面には横長の鏡が設置された水飲み場があり、女子トイレと男子トイレがある。その向かい側は自分たちが通う二年三組の教室だ。    掲示板には文化部が作成したポスターや、学生に必要な情報が掲載されたビラが貼られている。何もかもいつもどおり見慣れた校内の光景だ。珍しくもなんともない。むしろ落ち着くくらいだ。  類は掲示板から自分に視線を移した。白半袖のワイシャツに黒いズボン、夏の制服を着ていた。  (なるほどね。ここは夢の中か。どうせなら理沙と一緒にいる夢が見たかったな)  ふたたび掲示板に目をやった。  夏休み前と同じポスターとビラ。  けれども何かがちがう……。  首を傾げて掲示板を見つめた。「文字が反転してる」と、後方から綾香の声がしたので振り返った。すると全員が廊下に立っていた。  類は、綾香から掲示板に視線を戻した。  「違和感があったのは、文字が反転していたせいだったのか……」  夢にしてはやけに現実味を帯びている。しかし、現実であるはずがない。ここは夢の中。全員が揃って同じ夢を見るはずがないので、綾香との会話もさほど気にしなかった。もちろん反転した掲示板の文字も然り。朝を迎えれば忘れているか、奇妙な夢だったと思う程度だろう。真剣に考え込んでも意味がない。  「制服を着たみんなと一緒にいる夢を見るなんて……」明彦が淡々と独り言を言う。「疲れているのにレム睡眠なんだな。脳が日中の記憶の整理をしているなら、サバイバル系の夢を見るはずなのに。まあいいや、どうせ夢だし。それにしても、夜の校内だなんて、ずいぶんと平和な夢だ。現実もこうなら最高なのに」  類は、理屈っぽいところまで現実と同じだと思った。だが、夢の中だからといって、ピエロの姿をした明彦がおどけていたら、反転した文字よりも奇妙だ。  「まともなお前でよかった」  明彦は首を傾げる。  「まともな俺? まともじゃない俺ってなんだ?」  綾香はいつものセーラー服を見つめて言った。  「血塗れの衣服よりいいけど本当にへんな夢。でも夢なのにリアル」  類は綾香に顔を向けた。  「言えてる、リアルだよな。マジでお前といるみたいだもん」  「やめてよ。同じ夢の中にいるわけないじゃん。非現実的な話は嫌いだって、いつも言ってるでしょ?」じっさいに類と会話しているような気がした。しかし、絶対に起こり得ないので頭を切り替えた。「夢の中の類にマジになってどうするの? 馬鹿らしい」  「俺とお前が同じ夢の中いるなんてありえない」  「そうだよ、そのとおりだよ。調子が狂うから話しかけないで……」  (マジで調子狂うなぁ。へんな夢……)  類と綾香が奇妙なやりとりをしていたとき、斗真と翔太が頭を触り合っていた。チクチクした短髪の毛が互いの指先に伝う。  翔太は首を傾げた。  「へんなの、なんだか気持ち悪いな」  斗真は自分の両手を見つめて、握ったり開いたりを繰り返してみた。  「感覚がある……」  光流も、恵の肩にそっと触れてみた。すると、じっさいに触れているかのような感触が指先に伝わった。驚いた光流は、恵の肩から手を離した。  「本当に恵が目の前にいるみたいだ……」  恵も言った。  「あたしの肩にも感覚があったよ。みんな同じ夢の中にいるんだよ」  “『ネバーランド 海外』が仕組んだ罠なのでは?” と、ふたたび嫌な妄想に取り憑かれそうになった光流は動揺した。  「ありえないよ。俺と恵が同じ夢の中にいるなんて……」  掲示板に歩み寄った由香里が、近くにいた純希に訊いた。  「なんだか、鏡越しに見てるみたいだね。反転した文字を見てどう思う?」  純希は、由香里に適当な返事をした。  「べつに何も思わないよ」  (体に疲労が蓄積されてる。だから奇妙な夢を見る。それだけのことだ)  由香里は周囲を見回した。  「何もかもが現実の学校と同じだね」  由香里を無視した純希は、自分に言い聞かせるために独り言を言った。  「これは俺が見ている夢なんだ。朝になって目覚めた由香里は、デザートを食べた夢を見たって言うに決まってる」  由香里はぽつりと言う。  「純希もこの夢が怖いんだね……」  純希は返事せずに、床に腰を下ろした。  (じっさいに話しかけられてるみたいで頭が混乱する)  そのとき、自分の顔が気になっていた結菜が、水飲み場の鏡を見た。だが、顔どころか影すら鏡に映っていなかったのだ。みんなの姿も映っていない。  「あれ?」驚いた結菜は、鏡を覗き込んだ。「どうして?」  明彦は結菜に顔を向けた。  「どうしたの?」  結菜は鏡を指さす。  「へんだよ。誰も映ってない」  「だって夢だから」明彦は鏡を覗き込んだ。「たしかに夢にしてはリアルだけど……そう、これは俺の脳で見ているくだらない夢」  結菜は、姿が映らない鏡を見ながら思った。  (そうだよ、これは夢。朝になって、この奇妙な夢をみんなに話したら笑われちゃうよね。あたしってば、よっぽど鏡が気になるのね)  類たちも結菜と明彦のそばに歩み寄り、自分たちの姿が映っていない鏡を覗き込んだ。  そして綾香が、姿が映らない鏡と、文字が反転した掲示板のポスターやビラを確認した。  「なんだか……鏡の中から現実世界を覗き込んでいるみたいな夢だね」  道子が綾香に訊いた。  「それって、あたしたちが鏡の中にいるってこと? それなら全員が鏡に映らない理由も説明がつく」  綾香は、真剣な面持ちの道子の鼻を人差し指で軽く突いて冗談を言う。  「パラレルワールドってやつね」  真剣に訊いた道子は怒った。  「みんな同じ夢の中にいるんだよ! もっと真面目に話し合うべきだよ! 奇妙な世界に迷い込んだのよ、あたしたちは! すべて『ネバーランド 海外』が仕組んだ罠だよ!」  綾香は道子の声に驚いた。  「熱くならないでよ。『ネバーランド 海外』って単なるツアー会社じゃん。意味わかんない」  (本気で怒られているみたいで不快なんだけど)  「真剣に考えてほしいだけ! 怖いんだよ、あたしは! 夢がリアルすぎる!」  「真剣に考える……とはいえ、いまの道子に真剣になってもね」  (そうよ、これは夢)  「これはガチなの! どうしてふざけるの!」  「ふざけてるのはそっちじゃん」  (なんなのよ……イラッとする夢だな)  「学級委員長だからってえらそうに」  「べつにえらそうしてないけど。自分の意見を主張してるだけ」  (そうだよ、現実の道子があたしにこんなこと言うわけないじゃん)  険悪な雰囲気だったので、類がふたりのあいだに割って入った。  「喧嘩はやめようよ」  (これは夢だ。でも喧嘩する夢は好きじゃない)  綾香は、壁に背をつけて床に腰を下ろした。現実では長距離を歩いて疲れている。夢の中くらいリラックスしたい。このままでは、いくら寝ても心が休まらないので喋るのをやめた。    (じっさいに言われてるみたいでマジでムカつく)  綾香と同様に気の強い道子。綾香と対照的な考えを持ちながらも、同じ苛立ちの感情をいだく。    (超ムカつく、こっちは真剣なのに)  類は道子に言った。  「喧嘩はよくないし、とりあえず座ろうよ」  ( “現実っぽい夢” っていうより、現実みたいだ……。奇妙すぎる……)  道子は、類の肩を掴んで前後に揺さぶった。  「類、お願い、信じて。あたしたち大変なことになっちゃうよ!」  類の顔が強張る。  「おい、道子、やめろって」  (気味が悪い。本当に揺さぶられてるみたいだ。どうなってるんだよ、まったく)    現実の教室で喧嘩が起きているわけではない。他人ごとの結菜と美紅は、綾香の隣に腰を下ろした。そして結菜が道子に毒突く。  「夢の中まで冗談きつい」  真剣な道子は、結菜に言い返す。  「冗談なんか言ってない」  ジャングルを歩くのも疲れるが、言い争いはもっと疲れるので、結菜は道子を相手にしなかった。それを見た恵が、結菜と綾香と美紅に言った。  「目覚めれば信じるよ。みんな同じ夢の中にいるってね。もしも異世界だったら、元の世界に戻れる保証はないんだよ。だからうちらは真剣なのに……」  由香里が言う。  「こんなにもリアルなのに疑う余地なんかない」  道子は一瞬だけ綾香に目をやった。  「強情な誰かさんはきっと目覚めても信じないよ」  道子に不快感を覚えた綾香は眉をひそめた。しかし、真剣に取り合うだけ時間の無駄だ。    (あしたはまたジャングルを歩くんだ。こんなところで疲れてなんかいられない)  美紅がため息をついた。  「あたしってば超疲れる夢を見てるかんじ。目覚めは最悪ね」    美紅の言葉に綾香はうなずく。  「言えてる」  類も同感だ。  「だな……」  夢なのに異様に疲れる……。  現実世界において、綾香と道子が争うことなどいままでなかった。個性が強いふたりだが、類が知るかぎり仲は良いはずだ。去年は理沙を交えてみんなでキャンプも楽しんだ。理沙は隣のクラスだが綾香や道子とも友達だ。  みんな仲良しなはずなのに……。  (夢だからだよな。目覚めればみんないつもどおりだ。協力しあって浜辺を目指す)  けれども、類の考えとは異なり、しまいには泣き出す道子。  「信じてよ」  夢だとわかっていても女子の涙に弱い。  「まいったなぁ」  翔太は、想いを寄せる道子の涙を見て辛くなる。  「本当に目の前で泣かれてるみたいだ……」  道子は翔太に言った。  「みんな同じ夢の中にいるって、何度も同じことを言わせないで」  道子の慰め役は翔太のほうが適任だと感じた類は、我関せずの明彦や健の隣に腰を下ろした。そのとき、光流が水道の蛇口を捻ろうとした。だが、どれだけ力を入れても蛇口は回らない。それを見た類は、光流に訊く。  「水が出ないの?」  首を傾げる光流。  「うん。どうしてだろう?」  恵が光流に言った。  「何をしても無駄だと思うよ。綾香が言うように、ここは鏡の中の世界なんだよ。きっと、あたしたちは透明人間みたいな存在なのかも。だから何ひとつ動かせない」  光流は蛇口から離れた。  「透明人間……そのたとえ、怖いよ……」  恵は類に言った。  「ねえ、合言葉を決めない?」  類は理由を訊く。  「合言葉? なんのために?」  恵、道子、由香里は、全員が同じ夢の中にいると確信している。しかし、自分たちの意見を誰も聞こうとしない。それどころか、頭がおかしいとさえ思われている気がしたので、恵は合言葉を決めることにしたのだ。  「全員が学校の夢を見ていた証拠になるでしょ?」  類は馬鹿らしいと思いつつ同意する。  「いいけど」  恵は言う。  「簡単な合言葉がいい」  黙っていた明彦が口を開いた。  「だったら鏡の世界でいいんじゃないの?」  恵はうなずく。  「鏡の世界ね、それはいいかも」  類が一同に確認する。  「みんな、目覚めたら合言葉は鏡の世界だ。いいな?」  道子、恵、由香里、光流以外は、適当に返事した。同じ夢の中にいるはずがないのだ。真面目に取り合う必要がない、そう感じていた。  しかし、夢なのにとても現実味があるからこそ、頭が混乱しそうになっていた。これ以上、疲れたくない。なるべく口を利かないほうがいいだろう。  道子たち三人は廊下を右往左往して、落ち着かない様子だったが、類たちは横になり、目を瞑って時間がたつのをひたすら待った。  雰囲気が悪いせいなのか、退屈な古典の授業よりも長いように思えた。現実世界でも寝て、夢の中でも寝る。こんなにも奇妙な夢を見たのは初めてだ。  しばらくして腰を上げた類は、教室の引き戸の硝子窓から壁時計を確認した。やはり、文字盤の数字も反転していた。  <4時39分>  (いまからココナツジュースを飲んで出発したらちょうどいい時間だ)  「みんな」類は一同に声をかけた。「もうそろそろ起きよう」  明彦は思わず笑いそうになった。  「夢の中なのに現実と時間が同じなわけないじゃん。スマホのアラームをセットし忘れたから勘で起きないとな」  健が言った。  「俺の夢の中にいるお前らに言うのもへんだけど、四時四十分にアラームをセットした」  「ナイス」類は健に言う。「俺も夢の中にいるお前に感謝しちゃって、どうかしてるよな」  健は苦笑いする。  「でも、じっさいにお前と学校で喋ってるみたいで、マジで頭が混乱しそう」  類も苦笑いする。  「ほんとだな」  「ここの時間は現実と同じだと思う」と、類に言った由香里は確認する。「訊いてもいいかな? 合言葉は?」  類は呆れた表情で答えた。  「鏡の世界」  由香里はうなずく。  「はい、正解。目覚めても覚えてるよ」  壁時計を見続けていた純希は時間を告げた。  「四時四十分だよ」  類は一同に目覚めの声をかけた。  「それじゃあ、起きよう」
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