5184人が本棚に入れています
本棚に追加
暗闇の中でスポットライトを浴び、ぐにゃりぐにゃりと形を変えながらも決して離れない鰯の大群。
とても気持ち良さそうに泳いでいるように見えるのに、周りの仲間たちと付かず離れずの距離を保っているのはどうしてなんだろう。
人間と同じで、群れることで一種の安心感を得ているのだろうか。
それとも、実は全員が血の繋がったひとつの家族だったりして。
試食会が終わりアンケートに答えると、瑠加ちゃんはさっさと席を立った。
友達と約束があるからまたねと言われ、もしかして気を遣わせてしまったのかと心配したけれど、レストランを出た先で本当に三人組の女性が瑠加ちゃんを待っていた。
瑠加ちゃんの言葉には、裏表がまったくない。
だから俺と佐藤くんの関係を称した『いかにも愛し合っている感じ』に嘘偽りはまったくないのだろうし、だからこそものすごく嬉しかった。
もちろん、気恥ずかしくもあったけれど。
魚たちから距離を取り、エリアの奥に向かって上昇する階段の一番上に腰を下ろす。
背中を壁に預けると、ひんやりしていて気持ちいい。
令和最初のゴールデンウィークの、最後の日曜日。
たくさんの人が目の前の世界を行き交う。
家族連れ、カップル、年配のご夫婦。
この中に紛れたら、俺たちはどんな風に見えるんだろう?
ふと、左手が大きなものに包み込まれた。
優しい気配が、肩に触れる。
「お疲れさま」
「はい」
「電話くれたら出て待ってたのに」
「水族館に来てるかな、と思って」
そう言って微笑った佐藤くんは、もうすっかりいつもの佐藤くんだ。
白いピアノの前で身につけていたタキシードも、今はTシャツとジーンズに変わっている。
レストランでの佐藤くんもかっこよくて好きだけど、やっぱり俺はこっちの佐藤くんがいい。
そんなことを考えて、またひとりで照れた。
「それ、なんですか?」
「ん?ああ、瑠加ちゃんへのお礼」
佐藤くんは、俺の手元の小さなビニール袋をじっと見つめた。
薄暗い空間の中にぼんやりと浮かび上がる白いそれには、イルカの形をした缶が入っている。
中身は確か、レモンキャンディー。
ちゃんとお礼も言えないまま慌ただしく別れてしまったから、あとで瑠加ちゃんに送ろうと思って買ったものだ。
「やっぱり腹立つな」
「え?」
佐藤くんの右手に、力がこもった。
「そんな格好、俺には見せてくれたことないのに」
「あー……ドレスコードがあるって聞いたから……」
「それにしたって、気合い入れすぎでしょ。髪まで上げて……美男美女カップルで羨ましいってスタッフが盛り上がってましたよ」
佐藤くんの唇が尖っている。
なんだか、子供みたいだ。
「その噂の美女には、ランチ食べたらさっさと捨て置かれたんだけど?」
「振られたんですか。じゃあちょうどいいや、俺と付き合ってください」
「傷心の俺につけ込むのか?悪い男だな」
「どっちがだよ」
顔を見合わせて、クスクスと笑い合う。
くだらない言葉の応酬が楽しい。
「今日、来てよかったな」
「……なんで?」
「ピアノ弾いてる佐藤くんが見られたし、嫉妬までしてもらえた」
「姉ちゃんに嫉妬なんてかっこ悪いだけでしょ……」
あ、また唇がアヒルになった。
「楽しそうって思った?」
「思いました。理人さん、自分では気づいてなかったと思いますけど、ずっと笑顔でしたよ。気持ち悪いくらい」
「気持ち悪いって、ひどいな」
なんだ。
澄ました顔でピアノ弾きながら、ずっと俺のこと見てたのか。
嬉しいじゃないか、このやろう。
「俺が気持ち悪かった理由、教えてやろうか」
「料理が美味かったから?」
「それは1割……2割くらいだな」
「瑠加と話すのが楽しかったから……」
「それも2割。佐藤くんの子供時代の武勇伝いっぱい教えてくれたしな。でも残りの8割は、佐藤くんがかっこよかったから」
「えっ」
「今日の俺が気持ち悪かったのは、佐藤くんの話ばっかりしてたからだよ」
スポットライトを反射した瞳が揺れる。
半分だけ明るい顔が、ゆっくりと近づいてきた。
少しだけ瞼を下ろして甘んじて受け入れよう、としたところで、アヒルが斜め下に逸れた。
数時間前につけた跡を確かめるように、唇がゆっくりと這う。
背中が、ぞわぞわした。
まさかこんなところで、と思った瞬間、熱い吐息は遠ざかっていく。
残されたのは湿った首筋と、なにか言いたげに俺を見下ろす佐藤くんの視線。
「計算、合ってませんよ」
「あれ?そうか……?」
「どっちがいいですか」
「なにが?」
「家かラブホ」
「それとも、ここ?」
「なっ……」
「冗談に決まってるだろ。興奮するな、変態」
佐藤くんはアヒル口のままそっぽを向き、でも左手が強く握り込まれた。
「理人さん」
「ん?」
「絶対啼かす」
俺は、笑った。
「できるもんならな」
最初のコメントを投稿しよう!