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始まり
駅から、ほど近い路地裏にあるBAR『Chaser(チェイサー)』
仕事帰りに時々立ち寄る、私のお気に入り。
駅から割と近いのに、表通りから一本裏筋に入っていると言うそれだけで、一限の客が来ることの滅多に無い静かな店で、私のような女が一人でも気軽に飲める数少ない店の一つだ。
ここのマスターの河口さんは、形の良い口髭をたくわえ、銀髪をいつもキッチリとオールバックに纏めていて、涼し気な目元が印象的なステキなおじ様だ。
初めて来た日、カクテルの名前もロクに知らない私に、好みを聞き出しては様々な種類のカクテルを作ってくれては一つずつ丁寧に説明してくれた。
何度か通う内にすっかり打ち解けて、今では仕事の愚痴なんかまで聞いて貰ったりしてる。
マスターは、口数こそ少ないけれどとても聞き上手で、彼の作ってくれる美味しいカクテルの効果も相まって、いつの間にか自分の生い立ちまで話してしまっていた。
父親が酒乱で、家の中ではいつもビクビクしながら過ごしていたこと。
常に父親の機嫌を伺いながらの日々は、私に男性に対する恐怖心を植え付けるには充分だったこと。
けれど、マスターの物腰の柔らかさや、笑うとシワの寄る優しい目元や、落ち着いた話し方や魅力的なハスキーボイスに、いつしか癒されている私がいた。
実の父親は大嫌いだったけれど、幼い頃に甘えられなかった父の替わりに思っていたのかも知れない。
そんなある日、フト気が向いて寄ってみた『Chaser』には、いつものマスターでは無く随分と若い男のコがいた。
「いらっしゃいませ。」
彼はとても爽やかな笑顔で声をかけてきた。
「あ…。あの…、マスターは?」
「今日はちょっと所用で…、日付が変わる位までには来ると思いますが…」
「そうですか…」
マスターがいないなら帰ろうかと思い、ドアに手を掛けたまま店に入るのを躊躇していると。
「僕では、お相手出来ませんか?」
そのコは、キラッキラの笑顔で私に問いかけて来た。
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