第1章

10/13

1人が本棚に入れています
本棚に追加
/13ページ
 小さな砂浜にたどり着いたときには、息があがっていた。昨夜と同じように波打ち際は夜光虫の光が明滅していた。だが、そこにあの女性の姿はなかった。波の音だけが響く静かな夜に一人取り残され、やはりすべて夢だったのかもしれないとも思えてきた。だって、すべてができすぎではないか。夜光虫の光の中で、海から現れた美しい女性とキスするなんて、ありえない。だとするなら、もう会えないのだろうか。そう思うと胸が苦しくなった。リコに別れを告げられた時よりもずっと、コウイチ先輩に哀れまれたときよりずっと、息ができなくなるくらい苦しい。波打ち際にしゃがみ、海水を手ですくってみた。手のひらの中で青白い光がいくつか舞い、そして消えた。  ふと、すぐ近くで波音ではない水の音がした。そして、 「ソウタくん」  柔らかな声が降ってきた。はっとして顔を上げると、会いたかった女性がそこにいた。夜光虫の光の中に立ってこちらを見ている。昨夜とは違い、シュートパンツにタンクトップを着ているが、昨夜よりもさらに身体の線がよく見えて心臓が飛び跳ねるように高鳴った。 「もう来ないかと思った」 「来るって約束したじゃないですか」  待っていてくれたことの嬉しさと照れくささを、ついぶっきらぼうな口調でごまかしてしまった。 「こっちにきて。顔をよく見せて」  オレは促されるままに海水の中に入っていった。押し寄せる波が海パンの裾を濡らした。今夜は少し波が高いようだ。 「名前、教えてください」  女性は少し首をかしげ、オレの顔をのぞきこんだ。 「あなたはもう私の名前を知っているのよ」  かすかに漂う磯の匂い。手を伸ばせばすぐ触れられる距離にあるその白い身体には、確かに実体がある。ただ、熱が感じられない。 「心当たりがありません」 「今にわかるわ。できるなら、このまま気づかないでほしいけど」  そして女性はオレの手をとった。 「泳ぎましょうよ」  冷たい手に引かれ、海に入っていく。深いところまで足を踏み入れるにつれ、夜の海の暗さが身に迫ってきた。夜光虫の明かりがあるのは、波打ち際のほんの一部分だけなのだ。そこから先は、果てしなく闇が広がっている。  思わず足をとめたオレを、女性は振り返った。 「どうしたの。大丈夫よ、少し泳ぐだけだから」
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加