1人が本棚に入れています
本棚に追加
/13ページ
「泳いでいたんですか」
「そうよ。夜に泳ぐと気持ちいいの」
かすかに、磯の匂いがした。
「夜光虫と一緒に泳ぐととてもキレイなのよ。水をかくたびにきらきら光って、星空の中にいるみたいなの」
「夜に海で泳ぐなんて、危ないですよ」
「大丈夫よ、遠くまではいかないから」
泳ぎは得意なの、と笑う。冷たい手の感触を今度はアルコールとそれ以外のもので上気した頬に感じた。それから夜目にも赤い唇がオレの唇に重なった。熱も重さも感じない、ただ水に触れただけのようなキスだった。とっさにその細い身体に腕をまわそうとしたが、濡れた布の冷たい感触だけを残してするりと逃げられてしまった。
「だめよ、ソウタくんまで濡れちゃうから」
濡れてもかまわない、と言いたかったが、言葉がでてこなかった。
「だいぶ飲んでるのね。今日はもう帰りなさい」
女性は海の闇と同じ色をした髪をなでた。
もちろんオレはまだ帰りたくなんかなかった。もっとこの女性のことを知りたい。
「名前を教えてくれませんか」
「明日もまた会いにきてくれたらね」
「来ます、必ず」
すべてが謎めいたこの女性ともう少し一緒にいたいと思った。
「もう遅いですから、あなたも帰ったほうがいいですよ。オレ、送りますから」
「帰るってどこに?」
「キャンプ場に泊まってるんですよね」
女性は首を振った。
「私、ここに住んでるのよ」
この辺りには民家などない。キャンプ場以外の宿泊施設もない。ここ、とはどこを指すのだろうか。
「私は大丈夫。だから、もう行きなさい。お友達が心配するわよ」
ちょっと待って、と止める間もなかった。
「明日は一緒に泳ぎましょうね」
そう言うと、女性はそうすることが自然とでもいうように海の中に泳ぎ去った。青白い光の粒を纏った姿はすぐに夜の闇に飲み込まれた。
最初のコメントを投稿しよう!