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学徒区の食堂は営業時間の終える夜更けになると、さすがに人の気配が薄くなってくる。憩いのひと時にカードゲームに興じたり、酒を持ち込んで楽しむ者が数人いる程度だ。
仄かな灯りに染められる一画で、一人の男がうなだれていた。大きな体躯の背筋を曲げて、蒸留酒をちびちびと舐める表情は壮絶な沈鬱が広がっていた。
「なーんかまた、幸せも裸足で逃げ出しそうなツラしてんねえ」
エルダーは赤らめた顔をようやくもたげた。同輩から酒瓶を寄こされても、へそを曲げる態度を見せるだけだった。
「……ブラウンか。ほっといてくれ、隊務と言えども罪悪感を覚え、自己嫌悪を強い酒ではぐらかす木偶の坊で愚かな俺のことなんか……」
「ほーお。どうせキャンベル家絡みなんでしょ」
的中過ぎて思わず目を見開くが、すぐに思い直した。
「……そうか、お前は広報部の情報員だったな。しょうもないパパラッチばかりしてるから忘れそうになるが」
ブラウンは肩を軽く揺らし、エルダーの真向かいに座った。発泡酒の栓を開けて、瓶口に口を付けていく。
「天園鳥が絡んでるから、あんまり良いハナシは降りてこないけどね。なーんか妙に情報規制されてるっぽいし」
「規制って、何故だ? というか何の情報が……?」
「うんにゃ、ただの勘だからあんまり気にせんで。おかげでこっちは面白いネタに飢えてんだよね。あーあ、どっかに特ダネ転がってないかなあ……っと」
ブラウンが懐から取り出したのは、高音が鳴り渡る紙札だ。にんまりと口元を上向けていく。
「おやおや、噂をすれば何とやらで」
一撫ですると、紙札から麗しい声が凛と発せられた。
『こんばんは。お久しぶりね、ブラウン』
「ま、ままま、マーガレット・キャンベル嬢!?」
絶叫するエルダーの後頭部を、ブラウンはやかましいと叩いた。
「これはマーガレット嬢、ご機嫌うるわしゅう。直接のご連絡なんて超珍しいじゃん」
『ええ、どうしてもあなたの声が聞きたくて』
隣でエルダーがたちまち蒼白になっていく。
「えっ、なに、お前、実はマーガレット嬢とはそういう……!?」
立ち上がろうとするエルダーをブラウンは再度強めに叩いて、テーブルに沈める。
「そんで、今日は一体全体どうしたワケ?」
『良いネタがあるんだけど、高く買う気ないかしら』
「ほーう、言い値で買おうじゃないの」
豊作の予感に堪え切れず、ブラウンは即座に応じたのだった。
ネタを回収し、通話を終えたブラウンは、目を生き生きときらめかせていく。
「これはまたとなく筆がノリノリに乗りそうな予感……! 平和な街には他人事の刺激的なゴシップってねえ」
有頂天の心地で席を立とうとすれば、服の裾をエルダーが力強く掴んできた。妬ましそうに睨み上げてくる。
「お前……何で彼女とはそう親しげなんだ」
「マーガレット嬢とは文通仲間なの、前々からのね」
「文……通……だとッ!?」
「鼻息が荒い、うざい」
三度目は拳をお見舞いした。そして口元に深々とした笑みを浮かべていく。
「まあ見てなって。この広報部情報員の精鋭ブラウン・ツッカーが、皆のマドンナ、金の女神の輝ける覇道を書き記してしんぜよう――僭越ながらね」
*
「じゃ、こいつを局留めで頼むな」
「はい、お預かりいたします」
手紙を郵便局に預けると、ピックスはそのまま学徒区の食堂へ足を向けていく。解呪師局前を素通りしようとして、思わず足を止めた。
「嘆かわしいことだ」
「おいたわしや、キャンベル嬢」
「何考えてんだろうな、天園鳥は」
「我々を救ってくれた女神だぞ」
そう怒り嘆きながら局内で群がっているのは、後方支援部の解呪師たちだった。肩をいからせて何かを読み込んでいるらしい。
聞き捨てならない台詞の羅列に眉をひそめつつ、ピックスはその背後から怪訝そうに覗き込んだ。
「なーに三々五々とタムろってんだよ」
「ああ、ピックス殿。見てください、こちらの号外記事を!」
興奮気味に真正面に広げられたのは一面にもわたる少女の写真、そして特大の見出し文字。ピックスは顔を盛大にしかめていく。
「……あ? 何だこれ」
天空都市号外記事
『異端にして異彩キャンベル家――まさかの破門か』
――先日より七大都市を中心に猛威を振るう呪具『サイケデリック・アルカディア』。兇徒は未だ捕縛ならず、その第一容疑が辺境伯領のキャンベル家にかかっている。
出頭を命じられた当主のヨークライン・ヴァン・キャンベルは疲労の重なる体調不良により出席能わず。代行として、キャンベル解呪法の開発者であるマーガレット・キャンベルが応じる。
彼女の名をこの天空都市で見聞きする者は多い。キャンベル家の美しき姉妹の片割れ、女神のように光り輝く金の少女。
幼い頃よりあらゆる専門書を嗜み、その才気煥発さを見込んだ祖父の奨めで名門女学校『アンジェリカ・アカデミー』へ入学。僅か一年で卒業単位を取得し、首席で学業を修める才媛である。己が勉学旺盛さの奮い役立てる場を、人を癒し救う尊い御業――解呪へと見定め、天空都市の門戸を叩く。その優秀さはやがて独自の解呪法を見出すまでに至った。
彼女の手がける解呪符は、能力の有無にかかわらず万人の手で解呪を行うことを目的とするもの。夏の災禍においても比類なき力を発揮し、我々解呪師にただならぬ知恵と支援を授けてくれた。異端と称されど、真心を尽くす彼らに、このような仕打ちは酷というものではないだろうか。査問機関の正当な判事に注目されたし――
「……おい、ここまで煽る必要があるのか?」
エルダーの厚意で送り届けられた記事を読み、ヨークラインは一抹の不安を覚えるしかない。だがマーガレットは荷造りしたものを御者に預けながら、しれっと返す。
「民衆を味方につけるにはスリリングなゴシップが必要だもの。じゃ、行ってくるわね」
「気を付けてね、メグ」
胸元に手を添え、不安な面持ちで見上げるリーンにマーガレットは深く微笑みかけた。
「心配いらないわ。お土産に期待してて、美味しいチョコレートでも見繕ってくるわ」
別れの挨拶代わりに軽くウィンクすると、馬車へ乗り込んでいった。間もなくゆっくりと車輪が動き始め、屋敷から遠ざかっていく。
隣からプリムローズがリーンの腰回りに抱き付いてきて、こちらもにんまりと微笑みかけてくる。
「大丈夫よ、嬢ちゃま。ねえちゃまの回りに回る口車は、タップダンスしてるようなものだもの」
「ええと、喩えが良く分からないのだけれど……」
ヨークラインがため息交じりにプリムローズを見下ろした。
「お前の口八丁手八丁は、マーガレット譲りだからな……」
「んふふ。そこだけは似た者同士かもなのよ」
「そもそも姉妹なんだから、似るのは当たり前じゃないかしら……?」
リーンが心から不思議そうに呟くと、プリムローズはふと瞬きし、眼差しをくすぐったそうに柔めた。やがてきゃらきゃらと大きな声で笑う。
「だったらゆくゆくは、嬢ちゃまもあたしたちと似た者同士になっちゃうかもね」
「やめろ、お前みたくの小賢しさを身に着けてくれようものなら、どうしてくれる」
ヨークラインは相変わらずにべもない。それでもプリムローズの利発さが純粋に羨ましいリーンは、馬車を見送りながら小さく呟いた。
「……本当に、そうなったらいいのに」
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