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仄暗い茂みの中を縫うように進んだ先に、妖精の隠れ家はあった。
茅葺の屋根のこじんまりとした小屋だった。ベージュの壁には、縦に繊維ばった木材らしき素材が使われており、触れれば少しだけ柔らかい。不思議そうに瞬きするリーンに向けて、小人のクッカは穏やかに声をかける。
「お化けキノコをそっくりそのままくり抜いて作ったんじゃよ」
「えっ、ということは、これはキノコの柄の部分……?」
「傘部分は何処行ったんだよ、そこだけ食っちまったのか?」
ピックスの揶揄めいた尋ね方に、小人のクッカは肩を竦めた。
「猛毒の胞子を吐き出すもんでの、切り取っちまったわい」
壁を撫で上げる手をぴたりと止めて、ピックスは小人を睨み付けた。
「安心せい、そこは無害じゃ。多分な」
何処か信用ならない物言いをする好好爺は、キノコの柄の部分に嵌め込んだ木製のドアを開けて、中へと誘う。
「ガーランドの姫君、どうぞこちらへ」
「待て、まず俺が先に入る」
慎重に口挟むピックスが長身を半分程度屈めて、中の様子に気を配りながら入っていった。幾分の間もなく、手だけが入口から伸びてきて、大丈夫だと手招く。
「わぁ……!」
少し背を曲げて小屋に入ったリーンは、思わず歓声を上げた。
深緑の苔の絨毯が一面に広がっていた。柔らかな質感を踏みしめ、改めて奥内を見渡す。張り出し窓には虫除け用の愛らしい花の植わる花壇。その近くには藁に葉を被せて拵えた小さな寝台。反対の奥間には煮炊きが出来る小さな調理場もある。
壁全面には乾燥させた草花とキノコが所狭しと吊るされている。調理場の隣の作業台には、薬でも作るのだろうか、乳鉢の中に材料が入ったままで幾つか置かれていた。
小石に土漆喰を塗り固めて作った竈の傍には、木製の細長いテーブルが一台とスツールが四脚。草花を編んで拵えたテーブルクロスが愛らしい。
キノコの中の家にお邪魔するなんて、絵本の中にでも迷い込んだ気分だ。
甕からケトルに水を汲んで、火の入った竈の上に置いたクッカは、髭を撫でつつ思案顔になる。
「ちと席が足らんかの?」
「ああ、じゃあ私は寝転がってるよ。このふかふかさはなかなかどうしてラグジュアリーだもの」
窓辺近くに身を寄せていた魔術師は寝転がり、嬉々と絨毯を撫で回している。手触りが余程気に入ったようである。
残りの三人は丸椅子に腰掛けた。ウィリアムが席に着くと、その肩でじっとしていたコマドリのクーは、羽根を広げて天井近くの止まり木に身を置いた。白鼠のルミは相変わらずぴっとりと少年の首筋に身を寄せている。
支度した熱いハーブティーを木のカップに注ぎ、人数分を配るとクッカも椅子に腰を下ろす。
「まあ、飲んでくだされ。摘み立てでないのが申し訳ないが、風味はさほど変わらぬ」
「い、いただきます」
リーンはカップを手に取って、そろそろと傾けていく。薬草より染み出た檸檬のようなスッとした香りを吸い込んでから、少しずつ口付ける。清廉でまろやかな口当たりは、ジョシュアが入れてくれるものと似ている気がした。
「うむ、お茶があると何か摘まみたくなるな。クッカ、何かお菓子はないのか?」
ウィリアムがカップにふうふうと息を吹きかけながら尋ねれば、小人はたちまち顔をしかめた。
「坊は、ほんに見境がないのう」
「やめときなよ、坊ちゃん村長。妖精の作る食べ物を口に入れたが最後、元の世界に帰れなくなるから」
魔術師から遠巻きに呼びかけられて、ハーブティーを一口含んだピックスが、途端に咽せた。
「心配無用じゃ、鳥の若造。ヒトの飲むものを敢えて淹れておる。神の花嫁を無断で我らの領域に手招くのは、いささか無礼が過ぎるでの」
クッカが可笑しそうに肩を揺らした。リーンは思い出したように、手を一つ叩く。
「あ……そうだ。私、パンを貰っていたわ。良かったら皆で食べましょう」
仏頂面のパン屋が持たせてくれたバスケットをテーブルの上に置く。布の覆いを外せば、中からは茶褐色の大きな丸いパンが姿を現した。程良い焼き加減のかぐわしい香りにクッカは鼻をスンスンと鳴らすと、相好を崩す。
「これはかたじけない。どれ、確か採れ立てのヒースの花蜜があったかの。それなら坊たちも食べられよう」
蜜蜂に手伝ってもらったのだと嬉しそうに言いながら棚を物色し、赤茶けた蜜の入る小瓶を取り出してくれる。
パンを竈の熱気で少し蒸して温め直し、切り分けて木の器に並んだものをウィリアムが一番に手掴んだ。花蜜をたっぷり付けて大口で頬張ると、蕩けるような顔つきになる。
「うむ、この香ばしさ、小麦の豊かな味わい! これは顔面お化けのパン屋の味だな!」
「やっぱり村でも大評判なのね……」
リーンは納得しながら、手元のパンを小さく手でちぎった。それをウィリアムの肩に乗る白鼠にそっと近付ける。綿毛の身体がもじもじしながらも、パンくずをさっと奪い取り、美味しそうに頬張っていく。
「こら、ルミ。ちゃんとお礼は言わねばならんぞ」
ウィリアムが咎めても、白鼠は知らんぷりを決め込んでその身体を丸めた。
「ふふ、いいのよ。そっちのコマドリさんは食べるのかしら」
リーンがもう一つパンをちぎって手の平に乗せると、舞い降りたコマドリが素早く口ばしで摘まみ、元の止まり木に戻っていく。
「へっ、愛想のねえ小鳥だな」
ピックスが気に食わないように皮肉を叩けば、クッカはやれやれと眉尻を下げた。
「すまんの、姫。神の花嫁の賜りに、幾分緊張しておるようじゃ」
「あの……神の花嫁って、そんなにすごいものなんですか」
いまいち腑に落ちないリーンがおずおずと尋ねると、カップを傾けていたクッカは優しい眼差しで少女を見返す。
「姫の血筋は、この世界の中でも取り分けて特殊じゃ。古来より神と繋がりし一族、――言うなれば神の巫女であり伴侶であり、生贄でもあった」
生贄という言葉に、リーンの身体が知れず強張る。
「神と繋がるということは、世界と繋がること。天の声を聴き、予兆を感じ取り、物事を願えば天へと届けられる。神と通ずる特殊な素質は、非力な者への知恵として、人々から崇め奉られる存在よの」
「どうして、生贄なんかに……」
「その崇高なお恵みを悪巧みによろしくやってく極悪人が、いつの時代にもいるってこったろ」
パンを齧りつつピックスがすまし顔で口挟めば、クッカは歯を剥き出しにして獰猛に笑う。
「 古 の物騒な時代はの、私欲を撒き散らす輩が一層蔓延っておってのう。一族の姫たちは格好の餌食となっておった。そこに救いの手を差し伸べたのが、今は亡き王家の初代の王と、その伴侶であった神の娘、林檎姫じゃ」
「林檎姫……」
リーンもぼんやりとしか知らないが、王家の建国神話に欠かせない名前だった。人智を超えた不思議な力を使って、初代の王を覇権に導いたとされている。天から舞い降りたのだと伝えられ、素性不明の美しい女性の存在は、今も尚人々の間で語り継がれている。
そしてその神と言わしめるべき林檎姫が王にもたらしたとされる、林檎姫の呪いと呼ばれるもの。途方もない力を引き換えに、宿主である王の命を徐々に削る。王家のお抱え解呪師だったエミリーでさえ解くこともままならない、神の呪い。
「神の娘、ねえ。……ま、お嬢みたいに、ちとみょうちきりんな力を持ってたんだろうが、尾ひれと龍のたてがみがついて仰々しくなったってとこか?」
ピックスの冷めた言い分を、クッカはケタケタ笑い返した。
「さてのう。信じるも信じないも、己の心持ち次第じゃ」
「僕は信じているぞ。初代王の武勇伝は、何度聞いても心沸き立つ思いがするからな!」
満たされた腹を撫でて、ウィリアムが威勢良く口にする。クッカは「さようかの」と優しく相槌を打ち、リーンを見やって続ける。
「王家はガーランド一族を手厚い庇護の下に置いた。庇護の実質的な役割を命じられたのが、王の親戚筋にあたる若者クラム。ガーランド家を護る守護者、クラム家として代々繫栄していくことになる。神の花嫁に害を及ぼさんとする何もかも全てを薙ぎ払う剣、神の剣と名を冠しての」
「じゃあ、ヨッカは……その、クラム家の一族ってことなのね。……私が神の花嫁の血を継いでいるから、キャンベル家に引き取ってくれたのね……」
どうしてヨークラインが大勢の孤児の中から自分を選んでくれたのか。後見人と称し、どうして自分を取り分けて過保護に扱うのか。その理由がやっと分かって納得出来た。けれど――。
途端に消沈してうなだれるリーンを、テーブルに頬付くピックスが訝しげに見やった。
「何しょぼくれてんだよ、お嬢」
「だって……私自体は、すごくないもの。お母さんからも何も教えてもらってない。由緒あるものなんて、何一つ知らされていない」
膝上に置いた両手をぎゅっと握り締めて、少女は抑揚薄く呟く。
「誰かに護ってもらえるような謂れなんか、本当はないの。何が出来るのかちっとも分からない私は、ヨッカに護ってもらう資格なんてない……」
「お嬢、つまらねえへりくだりはよせよ」
眉根を寄せるピックスの声を遮るように、上向いたリーンは悲痛な眼差しを向けてくる。声色に、必死な切迫が込み上げていく。
「ガーランド家って、そんな立派なものなの? ヨッカは、勘違いしているんじゃないの? ……ヨッカは、本当は忘れたかった筈なのよ、私との幼い頃のことを。あの頃の自分は死んだことにして、キャンベルと名を変えて、このフラウベリーで暮らしていたのだから。事情は分からないけれど、それを我慢してまで、ヨッカが手に入れたかったすごいものが私にあるなんて、……どうしても思えないわ」
「――怖いのか?」
「……え?」
不意に言葉を返す若者の純な瞳が、リーンを静かに見据えている。
「その言い分だと、お嬢はキャンベルに、何も持たねえ自分を認めて欲しそうに聞こえる。つまりは、キャンベルに認められることを期待している。けど、それが望めないから不安になってんだ。違うか?」
「……そうなのかしら」
「キャンベルに期待されないことが、お前の今一番恐ろしいことか? おぞましい呪いをかけられるよりも?」
リーンはくしゃりと表情を歪め、力なくかぶりを振った。
「……一番怖いのは、隠し事が、ヨッカに伝わっちゃうことだわ」
「隠し事? 何だそりゃ」
「ええと、その、……誰にも言わない?」
恐々と見上げてくる眼差しが、心細く揺らいでいる。けれど、その色はほんの少しの期待をない交ぜにしている。心の奥底では、誰かに話したくてたまらないのかもしれない。
人の口には戸が立てられない、そんなことすら知らないのかとピックスは苦笑する。けれど下品に垂れ流す趣味は持ち合わせていないので、肩を竦める仕草で応じた。
「これでも口は堅い方だ。そんでもって、後ろ暗いこともちっとは経験してる。通りすがりの赤の他人、もしくは開けっ広げな身内とでも思ってさくっと話しちまえ」
「ピックスさんは……不思議な人ですね」
彼の軽快な口調は、少女の重く凝り固まった心に風を吹き込ませ、淀んだ気持ちは自然と薄らぐ。まるで古くからの知り合いを相手にしたように、安心感にも似た心地を覚えてしまう。
「……本当は、うそ」
小さく呟かれる声は弱々しい。けれど、音の一つ一つが空気をゆっくりふるわせる。
「何も出来ない訳じゃないの。一つだけ、教えてもらったの。……これは言祝ぎなんだって言われた。私の眼は、私の手は、祝福へ導くための尊いもので、人を幸せにするためのお手伝いなのだと」
澄んだアイスブルーの瞳が翳っていく。やがて耐えかねるように、目尻に潤んで浮かぶ光ごと落として伏せられる。
――ただ、願えばいい。
――何が見える?
――その目に、何を見る?
――何を見たい?
――胸の内側で問いかけて、しっかり心の声を聞いて。
――分かったら、この指で示して。
――それがお前の言祝ぎとなろう、白百合 。
「お母さんが亡くなってからは、私は暑いところから――遠く遠くの、世界の果てに連れていかれたの。そこにただ一つだけあった大きな塔の中で、『祝福』を願っていたわ」
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