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秋 the harvest hazard Ⅴ
小高い断崖の端より見下ろす海は、荒い水飛沫を黒々とした険峻の壁に打ち付けている。けれど、遠く限りなく広がるのは、寂々たる鉛色の水平線。泥水のような昏い海と、灰を被る低い雲との境界が曖昧で、遠目からでは物静かに混沌と融け合っているように見えた。
生命の気配を感じさせない、冷たい潮の匂い。踊る飛沫の音に紛れ、笛を切々と鳴らすように吹き荒ぶ海風が唇と頬をなぶっていく。耳の縁にちりちりとした痛みが走るが、僅かにかじかむくらいの耐え難い寒さではない。只々、得体の知れない物寂しさだけが冷えた胸に募っていく。
この涼しいばかりの、寂しいだけの海の向こうには、何があるのだろう。
その問いかけに誰もがこう返す。
「何もないよ。ここはランズエンドだから」
「世界の果てだから、この先に行けたとしても、何も待っていない。誰も見つからない」
「だから僕たちは、君は、ここで暮らすしかない。ランズエンドの塔の中で」
「さあ、僕らの塔に帰ろう、白百合」
世界の果ての塔には、白百合と冠された少女がいた。そこで、少女は施された――人々へ祝福を導く方法を。
「――けれど、それは過ちだったの」
膝上で握り締めていた手の甲にぽたりと落ちるのは、自責と懺悔の涙。頬筋に流れるものをそのままに、リーンは両手を恐々と広げた。右手を掲げ、人差し指だけを僅かにもたげる。
「私の見えるものは、人の『急所』と言われるところで――そこを示せば、周りの大人たちは良くやったといつも褒めてくれた。示された本人も、ありがとうございますと涙を浮かべて喜んでくれた。そして、その後にいつも目を伏せて動かなくなった。大人たちは、『遥か高みに昇った』と言った。それが本当は、何を意味していたのか……気付くのに何年もかかってしまったわ」
ピックスはふんと鼻を鳴らして、両腕を組んだまま上体を反らす。
「……極悪人の良いようにかどわかされてた、ってこったな。ま、『祝福』なんざ、招呪師なんつー馬鹿げた奴らの常套句だわな」
「知っているんですか?」
リーンの驚愕に見開かれた眼差しを、ピックスは何でもないように見返す。少女の頰に伝う涙を指の背で優しく拭った。
「塔の事件は有名だからな。私設の解呪機関だったが、裏では呪いをかける依頼も平然と請け負っていた。引き取った孤児たちにも招呪の仕方を教えて、自分たちの言うことを良く聞くお利口ちゃんな持ち駒を、沢山揃えていやがった。お嬢もその一人だったってこったな」
「そう。……でも、ある時、私たちは逃げようとしたの。もう、呪いたくなかったから。ここからは何処にも行けない――そう教えられていた、ランズエンドの塔から」
リーンは人差し指を下ろし、潤んだ目元の名残を服の袖で抑えた。
「逃げる時に離れ離れになっちゃった子もいたし、私は一度捕まってしまって、また手伝いをさせられそうになった。……でも、エミリーが助けてくれた」
「エミリー?」
「あ、すみません。ノーム・スノーレット卿って言ったら分かりますか?」
「ああ……あのおっかないロリ婆さんな」
「おっかないかしら? 確かに厳しいことは言うけれど……」
きょとんと小首を傾げるリーンに、ピックスは皮肉混じり表情を浮かべた。
「塔の罪人は一人残らず捕縛されて、スノーレット卿の名の下で粛清されちまってる。本来なら、解呪師を裁くのは天空都市の兵鳥の役割なんだがな。神の花嫁を私利私欲で扱ったってなれば、そりゃお冠にもなるか」
むしろ納得したと、ピックスは頬杖を付いてハーブティーを一口飲んだ。
「本当なら、ピックスさんが裁く筈だったってこと?」
「うんにゃ、その時の俺様はまだ兵鳥でも解呪師でもなかった、ただのチビガキ。お前さんと一緒で孤児だったが、ちっとだけ小利口でな。あの手この手使って、天空都市の高等解呪師に召し抱えられたってワケ」
「それで、解呪師に……。でもどうして、兵鳥にまで?」
一瞬考え込むようにピックスは沈黙したが、少女から視線を逸らしつつ、そろりと口開く。
「……単純に強くなりたかった。自分も、守りたいものも、強くならねえと守れねえからな。そんだけのこった」
淡々とした何処か遠い目をしながら、紛らわすように再びカップを静かに傾ける。
彼の心在らずで、視線の定まらない様子に既視感を覚えたリーンは気付く。キャンベル家の皆のように、この人もまた内に抱えているものがあるのだと。皆それぞれ、きっと誰もかもが、心に何かを閉じ込め、抱えながらも生きているのだと。
ならば自分だって塞ぎ込むだけでなく、皆のように真っ直ぐ前を向いていける術を見つけられるのではないだろうか。
「……私も強くなれば、ピックスさんみたいになれるのかしら」
真顔の少女がそうぽつりと言い零すので、ピックスは思わず吹き出した。
「ぶっはは、今の冗談は結構面白かったぜ。だが、俺の真似っこはお嬢に向かねえぞ」
ケタケタと大笑いされて、本気だったのにとリーンは表情を剥れさせる。いつでも飄々として余裕のある彼の態度は羨ましいし、見習いたいくらいなのだ。
「ピックスさんは自分は強いっていう自信があるでしょう? だったら、私もせめて、自分の出来ることに自信が持てれば、少しでも強くなれないかと思ったの」
リーンの手指にピックスは些細な視線を向けた。
「――見えるんだったな、人の『急所』が。ま、確かに解呪師としての旨味はでかいわな。呪いを解くにもかけるにも、そこが一番の直通ポイントだ」
「見えるようになったのは、塔で見え方を教えてもらったから。これが、神の花嫁としての力なのかしら……」
「そうさの。姫たちの言う『急所』とは、世界の理と通ずる出入口のような場所じゃ」
クッカが空になったカップにハーブティーを注ぎつつ口を挟む。
「外界より干渉するための鍵穴を探し当てるのが、姫の能力。鍵穴をこじ開けんとする悪意を俗に『呪い』と呼び、善意たる大いなる力を、『聖呪』と呼ぶ。神の叡智として、古くは魔法使いが術の会得を争っておった。そこの寝そべっとるお前さんは、良く知った話じゃろ?」
クッカの投げかけで、魔術師に多くの視線が集中した。向けられた本人は、苔の絨毯の上で億劫そうに寝返りを打ち、あくびをしながら気の抜けた声を出す。
「千年以上前の古くっさい話だよ。私以外に、そんな力を使える奴はもうこの世に一人残らずいない筈さ」
「だったら魔女っ子を名乗るあのガキは何なんだよ」
「さてねえ? これでも耄碌してるから、都合の悪いことは忘れやすくなっちゃって」
白々しく口笛を吹く魔術師を、ピックスは害虫でも示すように指差してリーンに向き直る。
「お嬢も、こいつとまではいかねえが、過去のことは水に流してやれっつー気概は持った方がいいぞ。強くならなくても、そんくらい出来る。じゃなきゃ生きにくくてしょうがねえ」
「でも……」
リーンは小さくかぶりを振る。してはいけないことをしてしまった過去は、心にきつく纏わりつく茨のようなものだ。振り解こうにも、鋭い棘となって苛んでくる。
「決してなかったことには、ならないわ」
「真理だな。なかったことにはならない。が、別に忘れろとまでは言わねえよ」
「え……」
思いがけない言葉に、俯きがちだった顔を思わず上げる。
「これは昔話だ。退屈な時に、ふっと思い出しちまうだけのもんだ。毎日を面白いこと楽しいことばっかで埋め尽くして、見えにくいようにしちまえばいい」
「そんなに上手く……出来るものかしら」
「出来なくても構わねえよ。お嬢がその時したいことをすりゃそれでいい。……それに」
少女の絹のような黒髪の一房を、いたずらに撫でて払うピックスは眩しそうに目を細め、やがてくしゃりと笑った。
「俺にとっちゃ、今のお前がいてくれるだけで充分だしな。ガーランドの姫だとか、神の花嫁の力だとか、そういう七光りな前書きなんざどうだっていい」
「……どうして、そう言い切ってくれるの……」
自分でも分からなかった気持ちをそっと包んで返され、リーンは戸惑う。戸惑いながらも、不思議な心地良さが胸内に広がっていく。強がらなくても、只のリーン=リリーとしていれば良いのだと、弱いままの泣き虫で、情けない心のままでも構わないのだと、安心させてくれる。
(どうしてこの人は、私が欲しかった言葉を知っているのだろう……)
「そりゃあ、お嬢はお嬢らしくいればいいっつーお節介な同情心からか?」
おどけるように言ってみせるピックスの軽快な笑みはふと削ぎ落され、少女を真正面から見下ろす。
「これまでのお嬢は、他人の都合に振り回されっぱなしだった。でも、今は少し違うだろう。自分の意思で選べるものが増えている筈だ。俺たち遊撃鳥の手で守られることを選ばず、キャンベルの下で留まっていることは、お嬢の選んだものだ。違うか?」
天空都市でホスティアという若者から、守護を打診された記憶が蘇る。とっさに零れていたのは断りの言葉だった。キャンベル家で解呪法を学ぶことを決めた自分には、他の誰かに誘われることなど考えもしなかったからだ。
「確かに……そうだけれど。私はあそこで暮らして、解呪師になるのが当たり前だと思っていたから」
「……当たり前じゃなけりゃ、俺たちに守られる選択もしてくれたか?」
ピックスの大きな手が、リーンの手指を恭しく持ち上げた。包み込もうとする手付きは優しかったが、相反する強さで握られる。けれど痛くも苦しくもない。大切な宝物を壊さないように、けれど決して失くさないようにと、確かな意志の下で熱い体温に覆われる。
「ピックスさん……?」
リーンは大きなアイスブルーの瞳を瞬かせる。それを若草の瞳が、ひたむきに捉える。
「解呪師になりたいなら、天空都市で学んだって構わないんだ。お嬢が望むなら、俺が直々に教えたっていい。……キャンベルの代わりに、今の俺ならお前を守ってやれる」
「あ、あの……」
「――自由を愛する鳥には、荷が勝ち過ぎやしないかなァ」
二人の神妙な間に水を差したのは、愛らしい小鳥のさえずりだった。天井近くの止まり木より、コマドリのクーが細やかな音色を降り注ぐ。
「神の花嫁に命を賭せるのは、守護者を任ぜられた神の剣だけ。昔からそう相場が決まってんのサ」
ピックスは舌打ちし、射殺さんばかりの眼力でねめつける。
「脳みそスカスカの鳥に言われたって、何の説得性も見当たらねぇな」
「あのネ、若造。同類だからこそ忠告してるのヨ。何事にも分相応があるってこと、弁えなきゃネ」
「ピックスさん、その……」
眉を下げたリーンの視線に気付いたピックスは「悪い」とぶっきらぼうに零し、少女のほっそりとした手を離した。己の頭を乱暴に掻き、何かを堪えるように仰々しくため息をついた後、自嘲気味に微笑みかけてくる。
「……ま、そういうこった。鳥も、俺も、他の誰でも、言いたいことを勝手に言う。他人の言うことなんざ、全部他人の勝手都合だ。だからこそ、そこから何を選ぶのかはお嬢自身だってことを良く覚えておくこった」
それでも少女は、迷い惑う理由を声に乗せる。
「でも、……その選択が誰かを傷付けてしまうとしたら? 好きな人の望まないことを、私は選びたいと思ってしまったら。魔術師の手当てを、プリムは望んでない。だけど、私はとっさに治したいと思っちゃったから……」
「えへ、雪のお嬢さんのピュアな同情を買える私は存外悪辣じゃあないのかも」
「言ってろよ外道」
得意げに頬染める魔術師にピックスが吐き捨てるように言って、リーンに続ける。
「好きだからって、相手の都合に合わせることが特別素晴らしいって訳でもねえだろ。まあ、お嬢が好きでやってることなら、問題ねえんだけど」
けれどもだと、人差し指を少女に突き付けて、実直な眼差しを一層鋭くさせる。
「他人の都合に自分を巻き込ませるな。巻き込まれても、その中で最善を模索しろ。それがお嬢の心と、お嬢自身を守ることになる。強くなりたいんなら、自分を守ることに気ぃ配るのも一つの方法だ」
「……自分の都合と、他人の都合」
リーンはそう呟いて、なるべく努力してみようと苦笑を浮かべた。
「区切って分けられるピックスさんは、やっぱりすごいですね。私には大きな宿題になりそうだわ」
ピックスは面映ゆそうに口角を上げた。
「他人に何処までもお人好しになれるお前さんの方がすごいと、俺は思うがね。ま、ぼちぼち頑張れ」
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