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巨大な月をも覆う、雲霧の如きの真っ黒な煙が薄明りの空に立ち昇っていた。灰褐色にけぶる森には、烈風を後押しにする猛炎が火花を撒き散らして広がっていく。地を覆うキノコや木々に触れる熱風が渇いた音を掻き鳴らし、消し炭と成り果てた細い幹はやがて耐え兼ねて倒れ込んでいく。
「ヒョーッホッホッホッホ! 燃えろよ燃えろッ! 火の粉を巻き上げ天まで轟けッ!」
細長い石柱に支えられた平石の上に悠然と腰掛け、舐め尽くす業火を見下ろしながらマッジーは高笑いをし続ける。が、不意にちらりと冷めた視線を隣へ注いだ。
「で、そこのオヤジは何さっさとくたばってんの」
岩肌を這うようにしながらぐったり寝そべるタッジーは、解呪符の持つ手を力なくヒラヒラ振った。
「いやあ、思ったよりも魔力を消費するなあって……。分析通りなら、ちゃちなオモチャ程度の燃費率の筈なんだがなあ」
「あのね、アタシたちはこの界隈では余所者よ? 存在が馴染んでないんだから、普段通りの力を引き出せる訳ないじゃない」
「あ、それかぁ〜」
失念していたと、タッジーがのんびり膝を打つのでマッジーは目くじらを立てて仁王立ちする。
「あっきれた! その分だけ魔導適合率は芳しくないって分かってたでしょ!? 大体いっつもアンタは、」
更に肩をいからせようとしたマッジーだったが、頬を打つひやりとした感触に肌を泡立たせた。
「ッ、何、雪?」
「いや……、雪っていうか……霰?」
タッジーも寝転んだまま上向き、額にコツンと当たるものを探るような目で見る。次いでベシッという嫌な音と激痛。物々しい大きさの氷の粒が猛然と降り落ちてきて、青ざめたタッジーは薄い頭を守るように抱えた。
「じゃないねッ、むしろ雹だねッ!?」
「いたたたたたッ! ちょっとお、何よお、季節外れも甚だしいッ! ほんっと忌々しいッ!!」
マッジーも両腕で頭を抱えながら、ローブの中へ深く潜り込んだ。
「うわーこりゃたまらん。撤退撤退」
羊皮紙を広げたタッジーは、そこに刻まれた文字を指で叩いていく。空白の欄に【Esc.】と表記されると、平石の上に光の柱が生まれて天へと迸った。幻惑境からの脱出口だった。お先に、と言いながら、タッジーは淡い光の中へ身を飛び込ませる。ゆっくりとだが、ふわふわと浮いて上昇していくその身体をマッジーがむんずと掴んだ。
「ちょっとお! 日和っこちゃんと月魔女ルナリアを同時に仕留めるチャンスなのよ! フイにする気ッ!?」
血走った眼を向けられても、タッジーは気だるげに口元を歪めるだけだ。
「恨みがあるのはお前さんだけだろ。何でそこまで執着するかねえ」
「だって、許せないんだもの! 日和っこちゃんも、ルナリアも!」
「オレは別にお嬢ちゃんにも月魔女にも恨みは感じちゃいない。氷の雨に打たれてまで貫きたい意志はないよ」
一層眉を寄せたマッジーは引き留めた腕を薙ぎ払い、なじるように吐き捨てる。
「……アンタとは、ほんっと気が合わない」
深いため息を押し出した後に、男に向けて片手を伸ばした。
「……仕方ないわね。あまりの解呪符をこっちに寄越しなさい。アンタがいなくても、アタシがとっちめてやるんだから」
少女は立ち上がって首を伸ばすと、森の陰から出てきた数人を遠目で捉えた。たちまち好戦的な笑みを唇全体に広げていく。
「うふふふん、炙り出されたわね……!」
森を燻す雲煙は、徐々にだがしっかりと湿り気を帯びていく。勢い盛んだった炎はすでに下火となって、黒々とした梢からは雫が滴り落ちていた。雪のように細やかな氷のシャワーが注がれる枯れ葉の濡れ道を進むと、リーンたちは木々の間が少し開けた広場へ辿り着いた。ウィリアムの肩に丸まっている白鼠が顔を上げ、鼻先で森の遠くを示す。
細長い石を柱にして支えらえた、平たい石の遺跡だった。そこを局地的にして霞空から大量の氷霰が降り注がれていた。ここではパラパラという簡素な音にしか聞こえないが、まともに受けたら頓死は免れないだろう。台座の上に腰掛ける輩が慌てふためいている様子を円らな黒目で捉えながら、白鼠は愛らしい鳴き声でぽそぽそ呟く。
「森燃やすの、許さない。かちかち氷で打ち所悪くして、死をもって償えばいい」
「怒ってるわね……当然よね……」
たじろぐリーンだったが、森を愛し、棲み家とする妖精の怒りは尤もだ。むしろ、おぞましい炎の海をたちどころに鎮めてしまった彼らの力には敬服するしかない。
「こう見えて、守護妖精の中ではルミが一番おっかないからのう」
傘代わりした大きな葉茎を手に持ちつつ、クッカは飄々と笑う。
「ん? 何だ、あのピカピカした光は?」
ウィリアムが台座の方角へ指を差した。細い光の柱が天に向かって伸ばされていく。
「ふうん、あれは幻惑境の出口と見たね」
魔術師が感心したように呟くと、隣のピックスが問いかける。
「あの脱出経路を差し押さえりゃ、俺たちも元の世界に戻れるか?」
「そうじゃないかな。……でもそうは問屋が卸さなそうだ」
台座の上の小柄な少女が、羽織っていた外套を天へと放った。手にある木の杖を掲げると、枝が伸びて外套に絡みつき、傘のような出で立ちとなる。
そして台座から足を蹴って軽やかに飛び降りた。おさげ髪を風に揺らし、こちらに飛んで向かってきているのを、魔術師は悠々とした薄い笑みで迎える。
「私を知っているらしいあの子は、私と雪のお嬢さんをとっちめたいようだから」
「どうして私を……?」
心当たりのないリーンは不安げに零すが、魔術師はケタケタ笑い返した。
「恨みなんて知らないところで買うもんだよ。こっちは悪くないのに、あっちの都合で悪者になるなんてしょっちゅうさ。一々気にしてたら損だよ」
「うむ、妖精の縄張りを荒らし、狼藉の限りを尽くしたのはあいつらだ。情けをかける道理などないッ!」
ウィリアムも頷き、逸る心を剥き出しにして地団駄してみせる。
ピックスは横目でしばし考えこむと、顔を上げた。
「――五分だ。五分、時間をくれ」
ピックスは飛翔装を広げると、その場で軽く上昇してからリーンを見下ろす。
「あの光の柱を陣取ってくる。もしくは、外に出られたら増援を頼んでくる。その間だけ、時間稼ぎに奴らの相手を引き受けてくれ。……やれるか?」
リーンは不安を隠さない表情だったが、けれど唇を硬く引き結んだ。
「……分かりました。ピックスさん、どうかよろしくお願いします」
「そっちこそ頼むぜ。ガキと使えねえ薬師のお守が圧し掛かってくるんだからな」
ニッと皮肉気に笑みながら少女の頭を掻き混ぜ撫でて、ピックスは飛び立っていく。その姿を見送る魔術師は腰に手を当てて、嫌味たらしくぼやいた。
「失礼な兵鳥君だよねえ。一人だけカッコつけちゃってさ」
「足手まといなのは事実だろうがのう。実際、お前さん、立ち向かう術はあるのか?」
クッカから半分揶揄に問いかけられ、魔術師は弱ったように肩を下げた。
「素敵なお隣さんの君らに是非とも任せたいところだよ。――けれど、そうだね、生き汚い程度には何とかしてみせるよ」
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