秋 the halcyon harvest Ⅰ

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*  夜も更けて入浴を済ませ、寝間着姿のマーガレットは息をたっぷりと押し出した。 「なーんか、騒々しい一日だったわね……」  首を左右上下に捻ってほぐしながら、自室の広い寝台に座って就寝前の手入れを行っていく。  手の平に香油を落として体温で温めると、華やかな香りが辺りに立ち昇った。目の前に流れるシェリーカラーの柔らかな巻き髪に含ませて、波打つ髪の合間をブラシで梳って香りを丁寧に馴染ませる。梳かれるその感触にプリムローズが気持ち良さそうに目を瞑った。 「ホントなのよ。カウス君とお外でたのしくデートしようと思ったのに、はなったれ坊やのおかげでまたまたややこしいことに巻き込まれたのよ」  そう愚痴を垂れ流しながら、同じく香油を手に馴染ませる。それを、目の前の真っ直ぐと流れる黒髪に滑らせていく。ぺたんと足崩して座るリーンの萎れた後ろ背に、マーガレットは苦笑を向けた。 「ま、一番ショックなのはこの子でしょうけどね」 「ねえ嬢ちゃま、とっても良い香りでしょ」  プリムローズから呼びかけられ、俯いて考え事をしていたリーンはゆるゆると顔を持ち上げた。後方へ振り向き、少しだけ笑みを形作る。 「うん……とても優しくて、穏やかな気持ちになれそう。花の香りなのかしら、フラウベリーの大通りを歩いている時と似ている気がする」  的を射た発言だと、マーガレットが口元を得意げに綻ばす。 「御明察。我がキャンベル領の村々で咲き零れる花木から香りを抽出したものよ。ラベンダー、ゼラニウム、ジュニパーベリー、ケーヴローズ……他にも様々な種類をブレンドした特別製よ。ま、貴重品には違いないから、とっておきのおめかしする時だけこうして使うのよ」 「そうなのよ。あたしたち、明日は女神さまになりきらなきゃいけないからね」 「女神さま……?」  何処かうきうきとしている姉妹から零れる言葉に、リーンは不思議そうに瞬いた。甘く爽やかな花の香りを纏った少女たちは更に笑みを深くする。 「明日はたのしいたのしい収穫祭。豊穣の神さまに感謝を捧げる日なのよ。ご馳走も沢山出るし、催し物もたっぷりあるし、賑やかになること間違いなしなしなのよ」 「そしてね、村の乙女たちが年一番に気合いを入れる日でもあるのよ」 *  透き通るような蒼空の、清々しい秋晴れの下では可憐な花々たちが舞い踊っている。  白いワンピースドレスのポケットにいくつもの生花を差し込み、日の出と同時に詰んできた草花を手で編んだ拵えた花冠を頭に被せる。花の妖精のような装束を身に纏うのはフラウベリーの村娘たち。その手にあるのは、この日のために丹精込めて作り上げたもの。  一つ目は、古きより伝わる恋物語を手書きの美しい書体で綴った冊子。  二つ目は、草花や大輪の花、鳥や月星といったモチーフを一針ずつ丁寧に縫い上げた細やかで愛らしい刺繍模様。加えて、薄明の白露を纏った小蜘蛛の巣(ゴッサマー)のような――儚く繊細な編み目が美しいレース。それらが施された多くのハンカチーフやテーブルクロス、手袋やポーチといった布小物。  そして三つ目は、フラウベリーの野に咲く花々で編んだ自身の被る花冠。  それらは全て、村を見守る神々へと献上される。一番の出来栄えとされるものは、花の女神から祝福を授かる。女神に扮する領主キャンベル家の美しき姉妹が、村の広場のテーブルに広げられた数々の献上品から取り分けて良き物を選ぶのだ。 「レベッカ、あなたのこの麗筆、去年よりずっと伸びやかで荘厳さもあって、物語の情景がより映えるわね。素晴らしい傑作よ」 「メグお姉様のために心血注いで頑張りました!」 「マリー、このちみちみねちねちとした熟練の職人技、なかなか会心の出来栄えなのよ」 「プリムお嬢様のお点前には敵いませんが、光栄です!」  姉妹から祝福のキスを頬と額に贈られて、一位の栄誉を授かった乙女たちはきゃあと黄色い声を上げてはしゃぎ、心からうっとりとした心地に浸っている。 「リーンおじょうさまも! はやくきめて!」 「あたしのがいいよね!」 「ううん! あたしのこそがかわいいよね!」  プリムローズよりももっと幼い少女たちから花冠の選定をせがまれて、リーンはおろおろと困り顔になる。 「ええと、その、みんなの全部が素敵だから、選べないわ……」  その場に居た少女たちが全員、一斉に首を横に振った。 「そういうのは、ジョシュア様だけでいいの」 「そうよ、お嬢様。ちゃんと選んで」 「ええ……?」  何故いきなりジョシュアが出てくるのか。理由が分からないまま、迷いながらもようやく決めて、目一杯に顔を綻ばす小さな乙女に祝福のキスも贈る。  女神の役目を無事にこなせてリーンが内心ホッとしていると、背後から低い声に呼びかけられた。 「授与は終えたか、お前たち。次の見せ物があるから撤収してくれ」  そう言いながら、ヨークラインはてきぱきとテーブルを片付けて広場の隅に押しやってしまう。 「あら兄さん、丁度良かった。女神へのお供え物、運ぶの手伝ってくれるかしら」 「元よりそのつもりだ。他の者は酒ばかり呑んで当てにならんしな」  手近に準備してあった花かごを装う荷車に、丁寧にだが手早く収めていく。花ばかりで溢れる華やかな祭りの中で、今日もヨークラインはいつもと変わらない全身真っ黒な装いだった。  リーンは自分のドレスに飾られた花を数本抜き取り、ヨークラインの背広の胸ポケットに差し入れた。青年は目を丸くし、それからじっとりと睨む。 「……何のつもりだ」 「ヨッカも今日ぐらいはおめかししたらどうかなって。せっかくの楽しいお祭りなんだもの」  純粋無垢に微笑まれて、ヨークラインは少々呆れた風に言い返した。 「女神のように着飾り装うのは、君だけで充分事足りるだろう」  きゃあと黄色い声がそこかしこから沸いた。周りの乙女たちが頬を染め上げて、二人を惚れ惚れと見つめている。 「ヨッカですって」「気心知れたご関係なのね」「女神のようですって」「君だけですって」「やっぱりそうなのね、お似合いね」  小鳥のさえずりのように嬉々と口ずさまれて、リーンは自分の無自覚な振る舞いが周りからどう見えているのかを、ようやく意識した。片やヨークラインの方は、口走った言葉の迂闊さを内心で舌打つ。 「あ、あの、違うの……! 私は……っ、ヨッカは……っ」  悩まし気な表情のリーンが何をか言う前に、ヨークラインはわざとらしく大きな咳払いをした。荷車の柄を掴んでさっさと歩き出していく。その後ろ姿をリーンが慌てて追いかけていった。  キャンベル姉妹は肩をすくめ、麗しい微笑みを浮かべていく。 「まあそういうことだから、遠くから生温く見守ってやって頂戴な」 「二人共恥ずかしがり屋さんだから、あんまりデバガメしちゃだめだめなのよ」  それとなく説き伏せられて、ほうと甘いため息を落とす村の乙女たちは素直に頷いたのだった。  荷車に収められた美麗の冊子や刺繍とレースの布雑貨は、そのままキャンベル家へ引き取られていく。 「今年も大収穫ね」 「村の皆のおかげなのよ」  喜色満面の姉妹を見やりながら、リーンも知れず嬉しい気持ちになる。花車に収められたものを改めて見下ろし、ふと尋ねてみた。 「こんなに沢山のものを引き取って、どうするの?」 「売るわ」 「売る!?」  あっさり返されてぎょっと目を瞠るリーンに、マーガレットがからからと笑う。 「七大都市の大富豪や、お貴族を相手にね」  ヨークラインも淡々とだが言い添えた。 「全て売り払って、我がキャンベルの貴重な財源とする。これでまた領内の整備が行える」  プリムローズが含んだ笑みで「にいちゃまもほくほくしてるのよ」とリーンにこっそり耳打ちする。いつもの仏頂面ではあるが、機嫌は良いらしい。眉間に刻まれる皺も剣呑な眼差しも、確かに今だけは鳴りを潜めている気がした。 「『常花の村の乙女たちが一年の手間暇をかけて作り上げる珠玉の一品』って銘打つと、高値や言い値で飛ぶように売れるのよ」 「ま、それは真実だものね」  姉妹の言葉に納得しながら、リーンは花車に収まった花冠にも視線を移す。 「花飾りも売り物にするの?」 「ううん、売るのは元より冊子と刺繍とレース小物だけなのよ」 「ま、花冠は今年からの、女神リーン=リリーに捧げる急ごしらえのお供え物だから」 「え……」 「あなたもキャンベル家の一員なんだから、どうせなら一緒に祝いたいと思ったのよ」 「嬢ちゃまだけ仲間外れにしちゃうのは、キャンベル家の家訓『一蓮托生』の意に背くことになるのよ」  姉妹なりに、リーンにも祭りを楽しんでもらいたい。その気持ちを真っ直ぐ感じ取るリーンは、背後にいるプリムローズの手を後ろ手で掴み、前方を歩くマーガレットの片腕目がけて、斜め後方からぎゅっと抱き付いた。 「あら、なあに、いきなり」 「嬢ちゃまがとっても甘えんぼさんなの」  姉妹の間に挟まれ、くすくすと妖精のような囁きを両耳に与えられながら、リーンは俯いたまま泣きそうに微笑む。お化け屋敷だと思って初めて踏み入れた時は、別の意味で涙が滲むとは思わなかっただろう。 (……私、やっぱりとても良いところに引き取ってもらったんだわ……)  花々で満ちる素敵な村の、温かな家で暮らせて本当に良かったと心から想う。ずっとここにいたいのだと、願う。胸に広がる高揚感と愛おしさ、そして不思議な切なさが苦しくて上手く言葉に出来ないけれど、どうにか小さくも「ありがとう」とだけ振り絞った。  プリムローズがひらめいたと手を打った。 「最後の夜には火祭りがあるのよ。大きな焚き火の中に魔除けで作った草杖を投げ込むから、一緒にそこへお供えしてもいいと思うのよ」 「あ、皆と一緒に踊るっていう……」  大きな焚火を取り囲んで、一晩中踊り明かす。その際、意中の相手とのダンスを申し込める。ウィリアムからも教えてもらった魅力的な催しだ。踊ってみたいと思うけれど――前方の荷車を引いて道を進むをヨークラインを、リーンは寂しそうに見つめる。  主従の繋がりを頑なに保とうとする彼から、踊ってほしいと誘われる筈はない。こちらからお願いしてみたとして、ガーランドの姫のわがままとして頷いてはくれるのだろう。元より、リーンの言い分には余程のことがない限り、断られたことはなかったのだ。今更になって、そんなことさえもやっと気付く有様だ。あくまで命令として従うだけの彼に、そんな不本意な真似はしたくなかった。  黒々とした大きな背中を見つめ、小さなため息が零れていく。そんな胸中を気付く筈もないマーガレットが、少女の横で朗らかに笑う。 「今年もジョシュは大人気でしょうねえ」 「というか、昼夜関係なく大人気なのよ」  玄関前のポーチではジョシュアが出迎えてくれた。花車に収まる数々の献上品を喜んでくれる。 「やあ、美しき花の女神たち。今年も大変ご苦労様だったね。ヨークもお疲れ様」 「労いは結構だが、そんなに悠長にして大丈夫か?」  ヨークラインから尋ねられ、ジョシュアは外出用のジャケットから取り出した懐中時計を見やり、いけないと慌て声を上げた。 「そろそろ出番だから行ってくるよ。一応昼食は用意しておいたから、レディたちもまずは家でくつろいでおくれ。勿論、外の広場で食べてくれても構わないけれど」 「あー……あたしは遠慮しておくわ。ジョシュを見てるだけでお腹いっぱいになりそうだもの」  マーガレットが幾分たじろぎながら答えた。 「そうかい? じゃあ行ってくるよ。ヨークもまた後で」 「ああ、さっさと行ってこい」  『出番』だと早い足取りで出かけてしまうジョシュアを、リーンがきょとんとしながら見送っていれば、隣のプリムローズがいたずらっぽい笑みを向けてくる。 「んふふ、嬢ちゃま。お昼食べたら見に行こっか? ジョシュアちゃんを取り巻くものその全部が面白いから」  再びフラウベリーの大通りの広場に戻ると、会場は主に女性で溢れ返っていた。その手に収まる包みの中身を、何本もの細長いテーブルに一つずつ置いていく。包みを広げれば数々のご馳走が姿を現した。それらは全て、自家製のプディングである。メインイベントの一つ、手作りプディングの品評会の始まりである。  パンとバターのプディング、ナツメヤシのプディング、アップルクランブルといった甘いプディング。ステーキとキドニーのプディング、チキンとリークのプディング、血と肉の腸詰めプディングといった料理のメインとなるもの。他にもライスプディング、肉料理の付け合わせであるドリッピング・プディング。そのプディング生地にソーセージを入れて焼くトードインザホールなど。それぞれの家庭で守られて受け継がれていた渾身のプディングが会場で振る舞われるのだ。 「プディングってこんなに種類があるのね……」  リーンが驚きと物珍しさで目を白黒させているのを、プリムローズがくすくすと微笑ましげに窺っている。 「煮たり焼いたり蒸したりしたらプディングになるらしいのよ。結構ざっくりしてるのよ」  テーブルに並ぶ数多のプディングを眺めながら歩んでいると、目の前の女性とふと目が合った。 「あら、リーンちゃん! さっきの女神の姿、とっても綺麗で素敵だったわよ」  テーブル越しに声をかけてきたのは、村で初めて友人になったジャム屋のリコリスだ。濃いブラウンの髪を今日は編み込みにして結い上げている。 「ありがとうございます。リコリスさんも品評会に?」 「ええ、勿論。良かったら一口いかが?」  そう言って小皿にプディングの一切れを乗せて差し出してくれる。礼を言って口に入れれば、頬が自然と緩んでいく。 「わ、強い甘味……! でも、すぐにさらっと口の中で消えちゃう……美味しいです」 「んんん、なかなかオツでクセになる味なのよ」  昼食を沢山食べた筈のプリムローズだったが、悪くないと相好を崩してするすると口に入れ込んでいる。 「うふふ、ジョシュア様に褒めてもらいたいから頑張っちゃった」 「でも、これだけ全部食べるのは難しいんじゃあ……」  リーンは気を揉むように長蛇の列の如きテーブルを見やった。遠目から見ても、百はくだらない皿が並んでいるのだ。 「勿論一皿丸ごとは無理だけれど、一切れずつきちんと召し上がってくださるの」  ほら見てと、リコリスが指さす方向には、女性に取り囲まれたジョシュアの姿がある。 「このしっとりと柔らかな口当たり……素晴らしいね。腕の中に閉じ込めてもするりと逃げてしまう儚き湖水の妖精のような味わいだね」 「ジョシュア様……ッ」  独特な言い回しで褒められた女性は頬をバラ色に染め上げて、感激の涙を浮かべている。 「ほら、ああやって一人ずつコメントも仰ってくださるの!」  リコリスが声を弾ませると、プリムローズは得意げにくすくすと笑う。 「ジョシュアちゃんはファンサービスにすこぶる定評があるのよ」 「ジョシュアがどうしてすごくモテるのか、少しだけ分かった気がするわ……」  リーンはそれでもハラハラした気持ちが止められない。テーブルには、未だにプディングが増え続けていくのだから。 「フラウベリーだけじゃなくて、キャンベル伯領の村々からも押し寄せてるのよ」 「……食べ切れるものなのかしら」 「祭りのこの三日間ずっと食べれば消えるのよ、問題なしなしなのよ」 「なんだかもう、冗談にしか聞こえないわ……」  女性に囲まれながら、紳士の笑みを浮かべ続けるジョシュアは心から幸せそうにプディングを食べている。それだけは良かったと、リーンは苦笑を浮かべるのだった。
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