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ピックスの教えてくれたステップは簡易なもので、軽い足さばきにつられてリーンも伸び伸びと踊ることが出来た。
伸ばした両手を取り合いながら、ピックスが尋ねてくる。
「要領は分かったか?」
「はい、多分」
「よっしゃ、ならちと応用編にもいってみるか」
伸ばした両手は引っ張られ、全身が大きな体躯に密着する。急に抱え込まれて少女は肩を緊張でいからせた。腰を掴まれ添わされる大きな手の平が、体温が、何処となく落ち着かない。
「あ、あの……」
戸惑う目線を送られて、ピックスはケタケタと笑う。
「はは、お嬢にはこういう大人っぽいのはまだ似合わねえか」
「が、頑張ります」
からかわれた気がして、負けじと背筋をしゃんと伸ばす。
「ま、お嬢のお家筋なら、今後こういうのに手慣れてなくちゃいけねえ。今からでも雰囲気だけは味わっとけよ」
「大人に、なったら……」
リーンは途方に暮れたように呟き、弱々しく俯く。
「そうなったら、ガーランドの当主になったら、……私はどうなるのかしら」
「そりゃ、お嬢次第でどうにでもなる。……大人になるのは怖いか?」
静かに投げかけられる言葉へ、リーンは上手く返せない。俯いたまま、足のステップだけは崩さないようにと慎重に踊る。
「……分からないわ。でも、なりたくてなる大人と、望まなくてもなる大人とがあるなんて、考えたことなかったもの」
冬が到来すれば、ガーランド家の正当なる後継者の齢となる。そして当主となることを望まれる。身の上を明かし、頭を垂れたヨークラインが何よりのその証拠だ。家はすでにないにもかかわらず、かつてガーランド家のもたらした呪いがある限り、守護者であるクラム家の盟約はあり続けるのだから。
「大人になったら、私はガーランドの当主として、ヨッカを従えなくてはいけない。そんなことしたくないのに……。でも、ヨッカは自分の目的と引き換えに、私に従うことを約束させられている」
けれど、このままでは林檎姫の呪いに侵されて死んでしまうだろう。自分も誰も、解き方が分からず、人の術では絶対に解けない神の呪いによって。
「――林檎姫の呪いが、あいつの身体にあるからか」
心中を全て見透かされたような言葉が降ってくるので、少女は思わず顔を上げた。ピックスが神妙な表情で見下ろしている。
「……どうして、そのことを……」
「カマかけ」
「えっ?」
慌てふためくリーンに、ピックスはふっと柔く笑った。
「なんてな。ただの雑な推論だ。お嬢は隠し事が出来ねえなあ」
「あ、あの、このことは誰にも……」
「言わねえよ。どうせ、キャンベルから直々に問い詰められるだろうしな。あん時の夕方の修羅場に、俺も鉢合わせちまったからよ」
「ご、ごめんなさい……」
あのやり取りを見られていたのだと思い返してしまうと、どうにも頬が燃える。
リーンの恥じらう顔から視線を逸らしたピックスは、遠くのヨークラインを目に捉えた。農夫たちに混じって話に花を咲かせているようだった。ちらとだけ視線が噛み合ったが、こちらをさして気にしている風でもなさそうだ。それ程には、無機質な眼差しからは何も伺えない。確かにこれは難儀そうだと、仰々しくため息をついてみせた。
「厄介な呪いを背負い込んじまって、あいつも苦労性だな」
「そうなの。……ヨッカは平気な顔をしてばっかりいるけれど、辛くない訳がないもの」
盟約を破ってしまえば、ヨークラインは呪いから解放されるのだろうか。彼自らが、呪いを手放そうとしてくれたのなら。元はと言えばガーランドの手にあった呪いなのだ。母との約束を頑なに守ろうとする義理はないし、命を削って得る力をヨークラインが全て納得して受け入れたとは思えない。
(人の術では絶対に解けない。解けないから、ヨッカは甘んじて呪いをその身に持っているに過ぎない……)
だからといって、リーンの手に再び呪いを戻そうとはしないだろう。でなければ、とっくの昔にそうしているであろうから。
迷う心のままに、取り留めなく言葉を紡ぎ続ける。
「……どうしたらいいのかしら。解き方は分からない。私は神の花嫁だからって、何も知らない。もしかしたら、お母さんは知っていたのかもしれないけれど」
「――俺が……俺たちが、知っていたら?」
腰に触れる手が、ぐっと強さを持つ。今一度真っ直ぐ見上げれば、ピックスがひたむきな視線を向けていた。
「その方法で、もしもキャンベルの呪いが消えたとするなら。あいつは、お嬢に従う必要はなくなって、お嬢はあいつから解放されるのか」
「そんな、方法なんて……」
「あるんだよ」
「一体どんな、」
「それは今は言えねえ」
間髪入れずに、けれどかわすように言い返され、さすがにリーンは少しムッとする。
「……もしかして酔っ払ってますか?」
ピックスは肩を揺らして軽快な苦笑で返した。
「は、かもしれねえな。だから、そんな表情をしているお前を、今すぐにでもキャンベルの元から連れ出したいと思っちまってる」
身体全体を更にぐっと引き寄せられてしまい、若草色の純な眼差しがぶつかりそうになるくらいに近い。取り合った手と手が、睦まじそうに絡まり合う。
「お前がガーランドかどうかなんて、俺にとっちゃどうでもいいんだ。だが、その理由が『お節介な同情心』ってのは、本当は嘘だ。あの時はつい誤魔化しちまったが――」
苦々しい笑みに、まるで泣きそうで縋るような色が添えられる。
「俺は……俺たちは、ただお前に願って、祈って、救いを求めずにはいられないんだよ――白百合」
「その名前……っ」
ステップが止まり、アイスブルーの瞳が揺れながら大きく見開かれる。わななく唇が、弱々しくも紡ぐ。
「どうしてあなたが、かつての私のこと……?」
ピックスは切ない笑みを零したまま、リーンの滑らかな黒髪に頬を添わせるようにして、耳元でそっと囁いた。
「今度の冬至――お前が十五の歳になって、否が応でも大人になる日」
外套がふわりと浮かび、黒い翼となってはためいて柔らかな夜風が生まれる。黒真珠の艶髪が煽られて、細く白い首筋が露わになる。透き通るような肌の輪郭を両手で包んで、若者は告げる。
「その日にお前を、俺たちの元へ攫いに行く。それが、かねてからのあいつの願いだから」
「あいつ……?」
「世界の果てのよしみと言やあ、話が早いか?」
途端、少女の鼓動が不穏に早鐘を打った。遠く彼方へ手放していた筈の記憶が、みるみるうちに打ち寄せてくる。思わず目の前の大きな体躯にしがみついていた。
「…………『エル』?」
正解だと、ピックスは満足げに頷いた。翼をはためかせて浮かび上がるので、懐の中にいる少女のつま先も地面から離れていく。
「天なる神の子がお前をご所望だ、白百合。代わりに、キャンベルの呪いは俺たちが解いてやる」
「そんな……でも、呪いは……」
「神の呪いは、神の子だったら解けるだろ?」
不敵に、涼し気な表情で告げられて、リーンは一層泣きそうな表情でピックスに縋る。
「……本当に、生きていたの?」
宙に浮かんだ細い身体を、伸びやかな長い腕がしっかりと抱き続ける。
だが風で流れてきた鋭い殺気を感じ、ピックスはすぐさまリーンの身体から手を離した。
「其は邪気滅す神の種子――エンコード:『ホア・ハウンド』」
弾丸のような光線がピックスの頬を掠ったが、薄っすらと皮むけて血の滲むのも構いもせず、ヨークラインを不遜に見やる。
「ようやくの邪魔立てかよ、守護者。あとちょっとでホントに攫っちまいそうだったぜ」
リーンを守るようにして抱え込んだヨークラインは、もう一枚の解呪符をピックスに差し向けて不可解そうに睨んでいる。
「俺を挑発したいのか何なのかは知らんが、攫う了見に関しては見過ごせない。君は一体何が狙いだ」
「それはお嬢に聞けよ、生真面目下僕。それに俺は、ちっとばかし口が過ぎるだけの鳥だからな。天なる御使いとして、伝言をもたらしたまでだ」
ヨークラインに強い力で押し止められつつも、リーンは身を乗り出す。
「ピックスさん……! 本当に、あの子は……!」
「――冬至の晩、迎えに行く」
ニッと不敵に微笑みかけ、若者は翼を羽ばたかせて天高く舞い上がった。伸びやかな羽翼は闇夜に溶け込んで、すぐに見えなくなった。
少女は瞳を揺らしながら、呆然と口零す。
「本当に……エルが……?」
「彼と何を話していた」
険しい声を落とすヨークラインを、リーンはパッと仰ぎ見た。――神の子だったら解けるだろ。ピックスの言葉が真実であるならば。
「ヨッカ、お願いがあるの! 私との主従関係を解いてもらうことは出来ないの?」
少女の勢いに面食らいながらも、ヨークラインは顔をしかめて辺りを密かに見渡した。
「人の目がある場で話す内容ではないな……」
ため息をつき、リーンの手元に大きな手を差し伸べる。
「だがいかんせん落ち着いて話す暇はない。……踊りながらならば、まだ容易く聞こえまいか」
「……踊ってくれるの?」
少女が信じられないように喜色を浮かべて問いかければ、ヨークラインは首を傾げた。
「……君はそんなに踊るのが好きだったのか?」
リーンは歯痒そうに口を尖らせた。
「そうじゃなくて……だって本当は、ヨッカと踊りたかったから……」
「ならば結構。さあ、手を取ってくれ」
「う、うん……!」
(ヨッカは、もしかして知らないのかしら……?)
あっさり誘われて腑に落ちないながらも、リーンは素直に手を重ねた。穏やかな甘い調べに合わせ、一歩、二歩と踏み出していく。
「ヨッカは踊れるの?」
「一通りはな。かと言って上手くもないが」
その言葉が謙遜ではないのだと、ピックスに教えてもらったステップをぎこちなく踏みながら、リーンは気付いてしまう。確かに、先のような軽快さはないように思えた。それだけ彼のリードが上手かったのだろう。
「……俺の事情を知ってしまったのなら、それは叶えられない。これはけじめだからな」
リーンの願いに、ヨークラインはそっと否を告げた。
「君を守ることは、クラム家の大義。命ある限りまで貫き通さねばならないものなのだ」
「でも……呪いがある以上、ヨッカの命は危ないんでしょう?」
「今すぐにという訳ではない。まだ芽吹いてはいない。スノーレット卿の力で、抑えられている」
「でも、エミリーの力でさえも解けないんでしょう? いずれはどうなるか、分からないわ……」
「――俺が信じられないか?」
不意に問い返されて、リーンは口を噤んだ。
「信じられないのは、俺がそこまで頼りないからか。君を守るに値する、守護者ではないからか」
「何でそんなこと言うの……? 私は、ずっとヨッカに助けられてきたのよ?」
頼りにしていない訳がない。リーンの心をずっと見守り、導となってきた善き賢者なのだから。
けれどヨークラインは苦々しそうにリーンを見下ろしている。
「君に伝えられないことは、もう俺にはない。だが君は、俺に伝えらないことがあるだろう。……過去に、君が暮らした場所のことも、そこで何を行ってきたのかも」
リーンは一瞬さっと表情を失くしたが、ヨークラインは矢継ぎ早に続ける。
「言っておくが、責めている訳ではないからな。俺とて自分の事情は言いたくなかった。その気持ちは理解している」
「ヨッカ……」
「だが、君の過去がどうであろうと、君を守ることには変わりない。それではだめなのか。伝えてほしかったと願うのは、傲慢だろうか」
その黒曜石の眼差しが寂しそうに揺れている。だから、リーンは正直に伝えなくてはいけないと思った。ヨークラインの何もかもが、己に捧げられているのだから。
「……だって、嫌われたくなかったから……」
「何故そんなことにこだわる」
「こ、こだわるわよ。ヨッカに嫌われることは、呪われるよりもずっともっとこわいわ……」
ヨークラインは眉を寄せて、小さく嘆息する。
「……君は俺を買い被り過ぎだと思うがな。そもそも元より、嫌う訳がなかろう」
「でもそれは、私がガーランドの姫だからでしょう?」
不満そうな口ぶりに、ヨークラインは困惑の眼差しを浮かべた。
「良く分からんが、君がガーランド家の一族である事実は変わらない。俺がその守護者であることも。一体、何が不服なんだ」
「……私は、」
リーンは視線を彷徨わせて言いあぐねながらも、わだかまりのある心を掬い上げてしまい、気付いてしまう。
(私は、只のリーン=リリーとして、ヨッカに受け入れられたいんだわ)
けれどそれは、ヨークラインがリーンに忠誠を誓っている限り、その身に呪いがある限り、叶わないことだ。そして、一度その主従関係を解いてしまったら。
(――私は、ここにはいられない。ヨッカはそのつもりで私を引き取ったのだから……)
「ねえヨッカ。……私が、林檎姫の呪いを返してって言ったら……」
たちまちヨークラインは渋面をしてねめつけた。
「我が主の命と言えど、それは致しかねる、と答える。馬鹿馬鹿しいことを言うのはやめたまえ」
「やっぱりそう言うわよね……」
ヨークラインはステップを止めて、リーンを神妙な顔つきで見やった。
「冬至は君の生まれた日なのだろう。君が十五歳になるその日、ガーランド家の当主を守る守護者として正式に誓約する」
「でも、ガーランド家はないのよ? 私は、何も分からない只のリーン=リリーの筈なのに……」
「……生き残った君がいるだけで構わない。君の存在が、俺の大義で宿命だ」
「私の存在が……ヨッカの……」
それは、なんて潔く物悲しい言葉なのだろう。
青年はその場に跪いて、乞う。
「……俺のガーランド。何もかも至らない俺ではあるが、どうか君を守らせてくれ」
「ヨッカが至らないなんてこと、ある訳がないわ……」
一番至らないのは、何より自分なのだから。
「頼りにしているの。それは本当よ。ずっと一緒に、ずっとここにいられたらって思ってるの」
(……でも、それはきっと間違っている)
リーンは涙ぐみそうになるのを必死で堪え、唇を引き締めた。
(必ず解かなくちゃ……。ヨッカの呪いは、絶対に解かなくてはいけない。私のせいで、死んでほしくない)
そのためならば――少女はひたむきな眼差しを濃紺たる天上へ向けた。火と煙の昇り詰める果ての満天の星空は、やけにぎらぎらと目映かった。それを見据える青く昏い澄んだ瞳は、すぐにヨークラインへと戻った。
「……お願い、ヨッカ。もう一曲だけ、一緒に踊ってくれる?」
膝をつくヨークラインの手を取って、立ち上がらせようと促す。
「冬至の日に誓うわ。ヨッカを守護者として受け入れるから。……これを、泣き虫姫としての最後のわがままにするから」
少女は目を潤ませつつも、ふわりと笑う。寒さに負けずに清廉と花びらを広げる、寂し気な冬の花のように。ヨークラインはそっと安堵の息をつくと、屈めていた身体を起こした。少女の手を握り直し、静かなステップを踏み始める。
「……我が主の御心のままに」
緩慢な調べに身を任せ、再びゆっくり踊り出した二人を村人たちが温かな目で見守っていた。
「やはりお似合いだねえ」
「跪いていたのはやっぱりあれかね、求婚だろうかね」
「やっぱりお二人は結婚するのか!」
「そりゃめでてえなあ」
「めでてえことばっかりで、うっかりバチでも当たりそうだなあ」
「……そうですね」
砂のざらつくような声で相槌を打つのは一人の少女。村人に交じり、遠目から少女と青年を儚い微笑で見守るエミリーだった。
やがて悲愴に視線を逸らし、人の賑わいからそっと外れる。杖をつきながら拙く歩き進めていく。
人気の薄い木立と茂みの合間で、とうとう胸元を抱えるようにしながらうずくまった。
「……あの子は、やはり私と同じ業を背負うのでしょうか」
その問いに答える者は存在せず、代わりに応えたのはパチパチと火花が細かく爆ぜる音。
魔除けの杖と共に、常花の女神に捧げる多くの花冠が投げ込まれ、焚き火の炎が一層鮮やかに立ち昇った。
秋の章 了
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