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凍てついたような寒さの中、かすかな吐息が静寂の早天に薄っすらと立ち昇っていく。星の輝きは潜み始め、遠くの山脈の頂を覆うのは濁りなき純白。昏い蒼空が少しずつ、けれど着実に明るく澄み渡り始める様を見渡しながら、ピックスはしかめ面で言い零す。
「嫌になるくらい、雲一つねえな」
「僕は好きだよ。空のずっと何処までも見渡せるから」
少年は焦がれるように、仄暗いアイスブルーとまっさらな雪山を見つめ続ける。
「何処までも飛んでいけるって思える。世界の果ての、そのずっと向こうまでも」
ピックスは懐から紅ハッカの根を取り出し、噛み潰しながら淡々と返した。
「飛べたって何が見つかるかは分かんねえぞ。ろくでもねえもんばっかり目についてきやがるし」
「へえ、その根拠は?」
「単なる経験論だ。兵鳥ならではのな」
少年は面白くなさそうに頬を膨らませた。
「ちぇっ、すっかり可愛くない奴になっちゃった。名前を変えたのは、やっぱり良くなかったよ」
「だからって呼ぶんじゃねえぞ。永遠にな」
「白百合の前でも?」
「ご法度だ、分かり切ってるだろ」
きっぱりはねつけるので、とうとう少年は声を上げて笑い出した。
「やあい、何処までも見栄っ張りい」
ガキの挑発かとピックスは苦く笑ってあしらう。
「お嬢にくだらねえ重荷は必要ない。俺だって昔話なんざいらねえんだ」
「恩人なんだから、お礼ぐらい言っちゃってもいいと思うのに」
「それで罪滅ぼしになると思うか?」
「……そうだね、お前はそう思わないか。納得」
頑として取り合わない様子に少年は肩を竦めたが、あっさりと頷いた。そしてうっとりと続ける。
「ねえ、もうすぐ会えるんだよね。嬉しいな」
「林檎が熟して食べ頃になったらな。……だが忘れんなよ、あの保呪者――キャンベルは死なせるな。それこそお嬢のご法度だ」
少年は口元を綻ばせる。
「白百合の善き賢者だもんね、分かってるよ。……ね、彼ってどんな奴?」
「堅物のクッソ生真面目野郎だ。神の花嫁に何処までも忠義を尽くす、昔風情の騎士といったところか」
「そう。……なら神さまの子供にも忠義を尽くしてくれるかな。白百合をお嫁さんにする僕にも、誓ってくれるかな?」
「そりゃ本人に訊けよ。白百合が命ずるなら、忠犬よろしく頭を下げて従ってくれるだろうがな」
「だって、白百合の施しを受けたお前は、誓ってくれただろう?」
ハッカ根を噛み締める口元が、いよいよ強張った。
「……それが最善だったからだ」
真っ白できれいな花を守れなかった己には、神の子に捧げるしかなかった。ただそれだけのことだ。
「林檎を食べたお前なら、あいつを一人にしないし、何者からも守ってやれる。そうだろ」
目映い黎明を背に受けた少年は、満面の笑みで頷いた。
「当然だよ。それにね、僕にはお前やホスティアや、魔術師がいるんだもの。お前たちが僕の傍にいるんだから、白百合だって絶対に一人にはならないよ」
「……そうだな」
突如、少年がくしゃみをした。すぐにその額に手を当てたピックスは、慌てて自分の外套を少年に羽織らせる。
「やべ、冷え過ぎだ。そろそろ中に入るぞ」
「ええ、もうちょっとだけ……」
「駄目だ。お前に何かあると俺がホスティアにネチネチ嫌味を言われんだよ。いいから戻るぞ」
「もう、仕方ないなあ」
鳥籠の中に戻ると、テーブルに朝食の支度を整えるホスティアが微笑みを浮かべて出迎えてくれた。
「おはようございます、御前。朝焼けは美しかったですか?」
「うん、とってもきれいだった。……ね、頼んでたものは?」
「こちらに」
ホスティアがテーブル脇のトレイを差し出してくる。切手のような親指大の薄い紙だった。そこにはインクで幾何学模様が刻み込まれている。
「魔術師が夜なべして完成させたそうですよ。本人は今から寝ると」
「そう、後できちんとお礼を言っておくね」
少年の横側から、同じく切手に目を落とすピックスが神妙に囁く。
「……どう駒を進めるつもりだ」
「魔術師が言うには、あくまで限定的に。でも影響が強くて、流れがあるところ。なら、決まってるよね」
ピックスは眉を寄せて、今度こそ盛大に舌打ちした。
「……あの古ぼけ天外魔野郎、えげつねえ知恵ばかりテメーに授けやがる」
「あはは、まあまあ。でもそろそろちゃんと、僕もお仕事しなきゃと思っていたし」
少年は清らかな微笑みを浮かべながら、切手を摘まみ上げた。そしてあっけらかんと言い放つ。
「それに、異端って、審問するものでしょ?」
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