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天空都市の夕闇が差し迫る一刻は取り分けて物々しい。大理石の床に鋭い斜光が反射し、黄昏色に帯びた通りの日影は一層黒々しく、街の明暗をはっきりと浮き彫りにさせていた。
漆黒の暗闇にも似た狭い路地には、古びた酒場がひっそりと佇んでいる。ピックスは観光区のパトロール中の気休め、もといサボりのために赴いたが、途端顔をしかめた。手狭なカウンターに見覚えのある姿を見つけてしまったのだ。
靴音をぞんざいに響かせれば、全身真っ黒の出で立ちの青年が顔を上げた。
「来たか」
待ち伏せされていたのかと、内心で舌を打つ。それでもピックスはヨークラインの隣に座った。特に逃げようとも思わなかったからだ。
テーブルに置かれたカップソーサーの見やりながら、意地悪く口角を上げる。
「酒場に来ておいてコーヒーかよ」
ヨークラインは肩をすくめて淡々と返す。
「生憎と、呑んでも身にならないからな」
林檎姫の呪いの解毒作用は、度数の高いアルコールでも瞬く間に分解してしまう。酒の席で振舞われるものは全て水と同一だ。おかげで成人しても酔っ払うという感覚を知り得なかった。
ピックスはフンと鼻を軽く鳴らし、「ワクめ」と毒づく。
「じゃあ俺もコーヒー」
「俺に付き合う必要はない。好きなものを頼めば良かろう」
「シラフの奴の隣で酒を嗜むつもりはねえよ」
下戸であるのをしれっと隠すピックスは、ついでにチョコレートケーキも注文した。
芳醇な香りを纏う苦みと、疲れを癒す甘みを舌で弄んでから、ゆっくりと口開く。
「……で? 俺様、野郎に付き纏われて喜ぶシュミはねえから」
さっさと用件を言えと暗に告げると、ヨークラインはふうと小さく息をつく。
「受け取るのと、奪われるのと、どちらか選びたまえ」
「は?」
ピックスが顔をしかめて視線を合わせようとした刹那。
ひたりと、己の首筋に解呪符が撫でつけられていた。
その反対の手がゆっくりとした動作で、ピックスの強張る手のひらに小ぶりの皮袋を乗せる。冷え冷えとした無機質な声が、重ねて問う。
「どちらか、選びたまえ」
薄っぺらい紙ごときで首は切れない、精々薄皮が向けるだけだろう。只の紙であるならばの話だが。
ピックスはゆっくりと口角を上げた。
「……そりゃあ分かり切ってる。こちとら、命あっての物種、わが身可愛さにが信条だ」
重みのある子袋を握ると、ヨークラインはすぐさま解呪符を懐に仕舞った。事もなげに言い放つ。
「手荒な真似をすまない。だが、俺たちの内々を聞きかじったとなれば、相応の沙汰は下さねばならんからな」
前から一目置いていたつもりだったが、やはり油断のならない相手。背筋にひやりと汗が垂れ落ちるピックスは、ひっそり胸を撫で下ろした。冗談でも相手の意に染まぬ真似をしていたら、首が繋がっていたかどうかは怪しかった。
「それと、君に問わねばならないことがある」
「俺に答えられることは、存外少ねえぞ」
ピックスはやれやれと肩を仰々しくすくめてみせる。
「俺が知ってるテメーの内々は、あの夕方の出来事が全てだ。テメーの身体に神の呪いがあるってことと、お嬢の根っからの下僕だってことぐらいだ」
「君はリーン=リリーと距離が近しいだろう、俺なんかよりも」
「……は?」
一体何を言っているのかと、思わずまじまじと見つめてしまう。
眉を気難しそうに寄せるヨークラインは、バーカウンターの正面を見つめ続けながら、ぽつりと神妙に声を落とした。
「収穫祭から、彼女の様子がおかしい。上の空なことが増えたらしいし、部屋に閉じこもって一人になる時間も多いらしい。かと思えば、一人で村の中を巡り回って楽しそうに過ごしているらしい」
「らしい、らしいって、何で情報源がまた聞きばっかなんだよ……」
「仕事で出かけてばかりだから、把握が出来ていない」
「……お前さん、時間の使い方を、もちっと器用に使えねえの?」
つい呆れた表情で伺えば、ヨークラインは「俺のことはいい」と睨み返した。
「寂しそうにする表情が増えた。秋の火祭りで、君と何やら会話を重ねていただろう」
「は、俺のせいだとでも?」
今度こそ惜しみなく嘲笑を浮かべてみせる。
「寝とぼけたこと言ってんじゃねえよ、守護者。十五の歳で、無理くり大人にさせられる身になってみろってんだ」
「俺がキャンベル領主になったのも十五の齢だ。己を取り巻く環境が、年齢を理由に変わるとでも?」
淡々とした物言いに、ピックスは苦々しそうにだが舌打ちする。
「身に覚えのある道理だが、お嬢に背負わせる必要があんのか」
ヨークラインは一瞬押し黙ったが、コーヒーを口に含んで密かな息を落とす。
「……彼女の身を確実に守るには、どうしても大義名分が必要だ。伯領を治める後見人ということですら生温い」
「あいつの気持ちはどうなるんだよ。テメーとの主従を望んでなかったぞ」
「了承はもらった」
「本音な訳ねえだろ、めでてえ奴」
隠さない皮肉を言い捨てられても、ヨークラインは僅かに眉をひそめる程度だった。
「彼女の望みは、こればかりは叶えようがない。主従を解けば家の盟約は失せる。保呪者としての存在意義も。そして呪いを返すということは、彼女の死と同義だ」
「……何で、そこまでする?」
ピックスは神妙に眉を寄せる。何処となく、似通うものを感じたからだ。リーンのために尽くそうとする謂れが、この男にもあるのだろうか。
「厄介なもん背負い込んじまうくらいには、お嬢を特別に思う理由があるのか?」
「当たり前だろう、俺の盟約相手だ」
「上っ面の筋通しは今は置いとけ。だから、憎からず思ってんのかを訊いてんだ」
ピックスのもどかしそうな言い募りに、ヨークラインは目を不思議そうに瞬かせたが、やがてため息交じりに告げた。
「宿命に、好きも嫌いもあるものか」
「……は、私情は挟むなってか? このマゾ級のクッソ生真面目野郎め」
勘違いだったかと、ピックスは侮蔑を滲ませてケタケタ笑った。勘が外れるのは珍しいが、こんなややこしい感情を抱く男が二人もいたとてリーンが哀れなだけだ。
だがピックスにとっては都合の良い感傷だった。憧憬と執着を抱えながらであれば、どうしたって守り抜けるであろうから。
無機質な高音の羅列が高らかに響き渡った。男二人はすぐさま懐に手を伸ばし、紙札を取り出す。軽く一撫ですれば、それぞれの紙札から音声が弾き出された。
『ヨーク兄さん! 急患よ、すぐに戻って!』
「分かった。なるべく早く向かう。とりあえず応急処置で場をしのいでおいてくれ」
『隊長、どちらに? 緊急ミーティングを間もなく行いますのでお戻りを!』
「チッ、ったく、分かったよ。ちゃんと行くから先に始めとけ」
再び一撫でして回線を切ると、ピックスはうんざりとため息を零していく。緊急連絡手段として、解呪符を持たせられているのだ。鈴付きの首輪を付けられているようで心底煩わしかった。
「マギーはしょうもねえもんばっかりウチにもたらしやがる」
『聞こえてるわよ、キリギリス。黙ってキリキリ働きなさい。それと、兄さん、やっぱり今回も――例のアレだから』
「……そうか。なるべく持ちこたえてくれ。今から戻るとなると、早馬車でも半日以上かかる」
「そんなら、コレ、使えよ」
ピックスが投げ寄こしてきたのは飛翔装だった。ヨークラインは目を瞬かせながら、ピックスと外套を交互に見やる。
「いいのか? 一点ものだと耳にした」
「隊長の俺様には予備があるもんなの、気にすんな。それに、テメーのことは高く買ってんだよ。……色んな意味でな」
「……すまない、恩に着る」
墨色の外套を羽織ると、威勢良く飛び出していった。その後ろ姿を見送るピックスは、皮肉げな笑みを浮かべて小さく言い零す。
「別に着なくていいぜ。こんぐらいの塩は送っとかねえと、あんまりにも気の毒だろ」
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